人の話を聞け

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 [DVD] 攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG Individual Eleven [DVD]


■これはもうずいぶん前に書いたことの繰り返しになってしまうのだけれど、この間、事務所のコヤマくんとご飯を食べに行って、そこで再び「世界の話」と「人間の話」という分類について、考え直してみたりした。


■「世界の話」というのは、つまり「神話」ということなのだけれど、だからといって「オリュンポスの神々が〜」とか「天照大神が〜」というものだけを指すわけではない。つーか、世界そのもののあり方を描くってのが「神話」の主眼で、そのなかで人間が演じられる役割はごくごく小さい。で、一方の「人間の話」はというと、それはつまり「メロドラマ」ということで、そこではひとりひとりの人間が演じる「感情の劇」こそが問題になる。世界は、それら人間たちの演じる劇の「背景」であって、それ以上でも以下でもない。


■とまあ、ざっくり整理したところで、実例を挙げないとわかりにくいかもねー。で、取り上げてみたいと思うのが、押井守版『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』と、神山健治版『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』。どちらも、士郎正宗の『攻殻機動隊』をベースにしているのだけれど、とても同じ原作を元にしているとは思えないくらいに違う。というか、元になってる問題意識が同じなだけに、映画へと昇華していくときの演出に対する“意識”の違いが、より鮮明に表われているように思う。


■で、勘のいい方ならおわかりの通り、押井版の方は「神話」を志向してる。つまり、ネットワークというテクノロジーを経由して、世界そのものと化した人形遣いと、それを追いつつ一体化していく素子、という図式。この映画で語られている“ゴースト”というのは、たぶん“魂”のことだと考えていいと思うんだけど、心身二元論のあげくに、身体なしで存在できる“データの集積”=“魂”というところに、映画のロジックは観客を導いていく。そして、その過程で「人間的な感情」や「人間的な能力の限界」は、やすやすと乗り越えられていく。だから押井版のストーリー自体は、その見かけとは裏腹に、恐ろしくシンプルで単純で一直線なんだ。


■もちろん、もう一方の神山版はまったく逆に「メロドラマ」を志向する。それは、ネットワークがアイテムのひとつとしてしか使われていない……というようなところだけじゃなくて、登場人物の感情の変化のみを繋いでいくような、神山の話法にも直接影響を与えている。『2nd GIG』のもうひとりの主役であるクゼは、明らかに“あったかもしれないもうひとりの人形遣い”を想定してつくられているように思うんだけど(素子へ語りかけるところとか)、しかし、そこでの彼の欲望は、世界そのものと一体化しようという、常人には到底理解できない欲求ではなくて、ヒドい生活を強いられている難民たちや素子へのシンパシーに支えられている。『1st』が“正義”の物語だったとすれば、『2nd』は全編にわたって“愛”の物語だったといえるけれど、その底にあるのは、どうすれば“信頼”が成立するのかという、あくまで「人間の物語」だと思う。


■しかし、そうした混沌とした事態を救済するのが、人でも機械でも世界でもない“タチコマ”というアンドロギュヌスだった、ってところに神山版『攻殻』のひとヒネリがあるんだけど、まあ、それはいいや。


■で、そんな神山版『攻殻』は、冒頭にこんな一文が添えられている。「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある一方向に向かわせたとしても“孤人”が複合体としての“個”になるほどには情報化されていない時代」。この一文は、士郎正宗の原作にある「企業のネットが星を覆い……」を模したものだけれど、僕はずっーと、この文章の意味がわからなかったのです。で、最近になって、ここに出てくる“孤人”って、いわゆる近代における“個”なんじゃ? と気づいたわけです。士郎正宗の原作では、ネット社会の発達によって“個”がゆるやかに結びつき“複合体”となること(ネットの海に溶け込むこと)が予言されているのだけれど、神山版は「その手前」=「“個”がまだ“個”のままでいる」状態が想定されているんだろう、と。


■んでもって、「“個”がまだ“個”のままでいること」というのは、つまり、この物語が近代の物語=「メロドラマ」=「人間の物語」ですよー、ってことでもあるんだ、と。……えっと、この項はまだまだ続きます。