僕の書く下手な詩はたぶん世界を救えない

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス) STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2006年 03月号


■いつまで「あけて」んだよお前は! って話なんですけども、そうはいっても書きたいことねえなあ、てゆうか、書きたいことはあってもなかなかまとまんなくて、とはいえウダウダやってると2ヶ月くらいはアッという間なので、とりあえず書く。なんとなくいつもの話と同じになりそうな気もしつつ、とにかく書いてみる。


■つい1ヶ月ほど前、とある人の日記で「どうしてアニメには評論が成立しないのだろう」というような記述を見て、そうなんですよねえ、アニメに評論ってないんだよねえ。今、印刷媒体で定期的に時評をやってるのは『ニュータイプ』の藤津亮太くらいだよねえ。――なんてことを思いながらしかし、僕は、10年ちょっと前からずっと「たぶんもう誰も、評論なんてもの、あんまり必要じゃねえのかもなあ」とも思っている。


■それはもっと具体的に、例えば、映画の批評はあって、なぜテレビの批評は――ナンシー関のような数少ない成功例は別にして、成立しなかったのはなぜなんだろう? という疑問だったりもする。そのためには、ナンシー関の批評を成立させているのが、いったい何なのか。ってところをちゃんと見極める必要があって、それは例えば北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』だったりで、ちょこっと触れられてたりするんだけども、まだまだ未開拓の分野だよなあ。


■ということとは別に、批評の危機なんてのは『STUDIO VOICE』の最新号に書かれるまでもなく当然の事態として僕の前にはあって、それはつまり、僕自身が関わってきたゲーム雑誌なんていう特殊な媒体の場合はなおさらのことで、僕自身が批評ではなくて「バイヤーズガイド」を要求され続けてきたってのもある。ゲーム雑誌におけるレビューというと、悪名高き『週刊ファミ通』の点取りクロスレビューがあるけれど、ようするにアレはその作品が「買いかどうか」が問題なのであって、そのソフトがどういう位置づけにあるゲームで、どのような可能性と不可能性を秘めているのか――なんてことは、まな板の上に上げられるはずもない。かつて蓮實重彦は「雑誌に載ってる書評なんて、立ち読み(いや、万引きだったかな?)みたいなもんだ」と喝破したけれども、書評以上にゲーム“批評”というのは成立しない。だいたいにおいて、必要ともされていない。


■ここで言う“批評”というのがどういうものかというと、とりあえずの“見取り図”みたいなもんだ。どうも、根本のところから書かないとわかってもらえないような気がするんだけれども、ひとつの作品や事象について、ああだこうだ話したり書いたりすることは別に“批評”じゃない。いやそれもまた“批評”の一形態ではあるのだけれども、つまりあるひとつの作品や事象を、もうひとつ上のレベルから(ということは受け手=メタレベルから)、吟味する……というのが“批評”なのだ。だからそれは例えば、この作品は社会のなかで(あるいは文化空間において)、だいたいこういう場所を占めてるんですよというような、指標をつくってくれるもの、ということになって、しかし、かつて「大江健三郎には平野謙がいた」というように、小説家と批評家が相互に補完しあって、社会との接点をつくっていくような時代はとっくの昔に過ぎてしまって、今では文芸の世界はもとより、ほかのメディアでもそんな幸福な事態は滅多に訪れない(福田和也あたりは果敢にやってたけど)。


■今、作品は“批評”というオブラート抜きで――つまりは剥き出しの状態で社会にさらされている。親切な誰かが「この作品とか作者がいいたいことはこういうことで、ここがこうなってるから素晴らしいんですよ」なんて、言ってくれることはまずない。もちろんここで“作品”といってるのは、パッケージ化されて流通しているアレやコレばかりじゃない。ネットの掲示板に書かれている無数の言葉もそうだし、ブログで書かれた文章――それが例えば「私は当事者じゃないから、知らないものは知らない」とかいうような、好き勝手に吐き散らかされた言葉であっても、そう、たとえばあなたが今、読んでいるこの文章も、そうした構造から逃れることはできない。言葉は映像は音は、外に吐き出され、記録として残った時点で、裸のまま社会と接せざるをえないのが、今の私たちの文化状況なのだから。


■そしてそこで何より重視されているのは、そうした言葉や映像や音が、どの程度“正しい”のか。ということのように見える(あともうひとつ“わかりやすさ”ってのもありそうなんだが、それに触れているととんでもなく長くなりそうなので、とりあえずは省略)。正しくないモノは、すべからく世間の(というか社会からの)指弾を受けるし、発言や作品は、それを裏付ける証拠を求められる。例えば、“正しさ”なんてものを端っから相手にしていなかったポストモダン哲学が衰退しちゃった代わりに、そこで指し示されている“正しさ”がどの程度“妥当”なのかを測ろうとする社会学が興隆するのも、たぶんそういう事情と裏表なような気がする。


■ところが困ったことに“見取り図”というのは、どこかに必ず嘘を含まなければ成立しないもので――というか、つまり誰が見ても歴史的にも社会空間的にも“正しい”見取り図というのは、なかなか成立しなくて、それゆえ“批評”はどんどん消えていく。そして僕たちの手元に残されたのは、「ある程度妥当だなと思える“見取り図”」と「常にその“見取り図”を刷新しようとするネタの応酬」だけなのだった。