笑顔の硬いお姫さま

■あけましておめでとうございます。約1カ月に1回更新がすっかり定着してしまった感じですが、今年はもうちょっとペースアップしたい所存。


■去年の後半は、ずーっと“ニューウェーブ”と呼ばれている音楽について考えをめぐらせていることが多くて、それはもちろん「80's リバイバル」とか「ポストパンク的な」と呼ばれるようなジャンルの音楽――それこそレディオ4とか、ティーフシュワルツとか、リミテッド・エクスプレス(ハズ・ゴーン?)とか――に、良作が揃っていたからなんだけども、どうやら、以前の“ニューウェーブ”をじかに体験した世代(現在40歳前後の人たち)にとって、このニュー・ニューウェーブというような一連の動きを、ある種のデジャヴと違和感をもって迎えられているようで、例えば「コミックビーム」誌の連載で、DJ.TKDは、昨今のポストパンクムーブメントをめぐって「まるでスカトロマニアが食卓の上にキレイに盛りつけられた自分のうんこを見つめている気分だ」と書いている(2004年9月号)。


■その気持ちはとてもよくわかるような気もして、例えば「ポストパンク的な」とレコ屋のポップに書かれてしまうような音楽には、70年代末のある種の切迫感が欠けているようにも思えるし、実際のところ、音の強度を上げるための一技法としての「ポストパンク」的な手法。という側面は、間違いなくある。メタリックなビートとギターの絡み、ファンクあるいはディスコあるいはダブから借りてきた、うねりはずむベースライン、スクリームを基調としながらメロディアスなボーカル……などなど、ポップ・グループやギャング・オブ・フォーやスリッツをすぐに想起させる、もろもろの技法は、間違いなくこのムーブメントのキモでもあって、見逃すことのできないポイントでもある。


■でもその一方で、それだけじゃないんじゃないの? という気持ちも、またあったりはする。というのも僕自身、ポップミュージックを積極的に聴くようになってからずーっと今まで、ポストパンク的な音しか聞いてなかったような気もするからなのだ。例えば、高校を卒業して大学に入る頃、僕はUKのポストニューウェーブ世代(キュアーとかマイブラとか)を好んで聞いていたし、その後興味はアメリカのインディポップに移り、さらにはテクノ、ハウス、ヒップホップへ……と、どんどん移行したのだけれど、つまり僕が一貫して聞き続けたのは――聞き続けたかったのは“手づくりのポップソング”としてのニューウェーブだったんじゃないか、と思い当たったのだった。


■例えば、僕がUKシーンへの興味を失ったきっかけは、オアシスの出現だった(そういう意味で僕はオアシスが本当に嫌いだし、許せないと思っている)。あるいは、USのインディポップが急に詰まらなく思えたのは、グランジの出現だった。ニルヴァーナ自体はとてもいいバンドだと思うけれど、それに伴って続々と登場した有象無象は、ハードロックの焼き直しにしか聞こえなかった。


■別に、商業化が音楽を堕落させる、とは思わない。もともとポップソングなんて、堕落した音楽なんだから。むしろ、商業化というか一般化に抗いながら、同時に妥協もしていく……という音の動きとしての不安定さ。こそが、ポップソングの魅力なのであって、僕にとってニューウェーブとは、そういう“不安定さ”の別名なのだろう、と思う。オアシスの登場で巻き起こったブリットポップ・ムーブメントや、ニルヴァーナが先頭を切ったグランジ騒動が、どうにも我慢がならなかったのは、それが“いつかどこかで聞いた音楽”へと、いわば“安定”へと、ポップミュージックを引き寄せてしまうように思えたからだった(これは、テクノムーブメントのときもまったく同じで、テクノの名盤がいっぱい聞けるようになるのと前後して、“テクノ”を志向するテクノ――いかにも“テクノ”らしいテクノが山ほど出てきた。そしてそれらは、すべからく詰まらなかった)。


■つまり、僕にとって大切なのは、どこかで見たような、聞いたようなモノを反復するのではなくて、さまざまな個人がそれぞれに“ポップ”を目指した過程で、必然的に生み出されてしまう“奇妙な何か”なのだろう、とは思う。僕らは、多くの人々に向けて表現を発信し、そのなかでより多くのわかりやすさを手に入れる一方で、理解できない“何か”をも必然的に手に入れる。そして、それもまた“ポップ”という同じ名前で呼ばれ、流通していくのだろう。


■年の初めに何を書いてるんだろう? と思わないでもないですが、とりあえずアップしておきます。あとで読み直すと、恥ずかしくなりそうだけど。