『テヅカ・イズ・デッド』を読んだ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ


■『スタジオボイス』マンガ特集の座談会の帰り際、伊藤剛さんがちらっと話されていて、とても楽しみにしていた『テヅカ・イズ・デッド』を、ようやく読み終わった。すごく面白い。そして「うーん……」と考え込んだ。


■彼が、この本で展開している問題意識というのはつまり、「90年代以降のある種のマンガを、どうすれば“読む”ことができるのか」ということなんだろうと思う。例えば“ガンガン系”と称される作品群、あるいは『ぼのぼの』。もしかするとやおい系の作品もここには入るかもしれない。それはつまり、かつての名作マンガの水準からすれば、明らかに「物語が弱い」と思われてしまうような作品を指す。そして、それは歴然と“ある”にもかかわらず、一方でマンガ評論の世界からは無視され続けている(らしい。僕はよく知らない)。


■彼は「90年代以降のマンガを“読む”」ために、ひとつのモデルを提出する。それが「キャラ/コマ/言葉」というワンセットのツールだ。あえて「絵」でも「キャラクター」でもなく「キャラ」という特異な概念を持ち出し、「コマ」の機能について詳細に分析しつつ、これまでに提出された「コマ」にまつわるテクニックを整理し、少女コミックの分析を通じて、マンガにおける「言葉」の奇妙に混交したあり方に光を当てる。


■強引に趣旨をまとめると、ここでの伊藤の試みは、つまるところ“主題主義からの離陸”ということに尽きるような気がする。マンガをテーマに沿って読み解くことが、まるで“読む”ことと同義であるかのように、私たちは思い込んでしまっている。がしかし、それは読み方として非常に狭い。むしろ“主題”の抑圧に押し込められている「キャラ/コマ/言葉」のなかにこそ、マンガをマンガたらしめているものがある。……つまりここで伊藤が試みているのは、マンガを、それを構成している“基底材”にまで分解してみよう、ということだ。ある種の還元主義といってもいい。


■だから僕が読みながら思い出していたのは、フッサール現象学――私たちはどのようにしてこの世界を“ある”と思えるようになるのか、を知覚の経験のレベルまで分解しようという試み――だった。そしてそれは、菊池成孔大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』における、バークリー・メソッドへといたるポピュラー音楽の歴史を思い出させたりもする。この本が語るところによれば、音楽はその始まりにおいて、旋律なんて存在しなかったらしい。教会のなかで、秘伝を伝える錬金術師たちのように、その奏で方は口移しに伝えられていた。それがさまざまな紆余曲折の末に、音階という私たちのよく知っている手段へと、分割し“デジタイズ”されることで、流通が可能になる。音楽は譜面となり、印刷され、大量に頒布可能になった。音楽という、もともと不定形の芸術は、その構成要素にまで分解されることによって、誰でもアクセスできる芸術になった(……と、現代のポピュラー音楽はそのさらに先へと――録音技術の発達によって――進んでいるのだけれど、それはまた別の話)。


■『テヅカ・イズ・デッド』にみなぎっている、どこか呪わしい力というのは、たぶんそういう還元主義の持つ力のような気がする。それは実際この本が、マンガの技術を教える専門学校での伊藤自身の体験――いわば“使える技術”について考察することから、導きだされた結果でもあるのだろう。“主題”などという漠然としたものではく、キャラやコマや言葉の集積物として、私たちの目の前にある“マンガ”そのものを見る、ということ。


■だから僕がこの本を読みながら、ずっと気になっていたのは、それが“主題”とどのように絡むのか、ということだった。音楽が譜面になっても、そこに再現されるのは音韻だけであって、音響は再現されない。そのとき、そこで演奏されていた空気、演奏者のミス、観客の咳払い……は、決して再現されない。それと同じように「キャラ/コマ/言葉」にまで分解された“マンガ”は、もしかすると“マンガの半分”だけなのではないか?(面白いことに、この本の最後は“マンガのオバケ”をめぐる考察で締めくくられる。半分だけのマンガとしてのオバケ?)。“主題”が、そのあと半分なのではないか?


■もちろん、これまでのマンガが“主題”でしか読まれていなかったのだとすれば、これほど不幸なことはない。それもまたマンガを“半分だけ”しか、読んでいないに等しいのだから。つまり「キャラ/コマ/言葉」のセットによって、「主題」がどのように読み解かれるのか。そこが個人的には知りたいなあ、と思ったわけです。


■……というのは実は、座談会のときの、伊藤さんと僕の対立点でもあって、同じ話の繰り返しでもありのですが。まあ、長くなりすぎたし、あまり論点も整理できてないですが、とりあえずアップしておきます。後で書き加えるでしょう、余裕ができたら。