目に見えるものはすべて風景

リンガフランカ (アフタヌーンKC)


■日記でもブログでも掲示板でもいいんだけど、インターネットで交わされてる言葉のあり方って「何かに似てるなあ、何だっけかなあ……」と思いつつ、今年のお正月、実家に帰って母親から「パソコンの調子が悪いのでちょっと見てよ」と言われて、ちょこちょこイジってたとき、あまりに時間がかかるので、ラジオをつけたら、大滝詠一山下達郎がしゃべっていて「あ、これか」と思ったのだった。


■「あ、これか」というのは、つまり、インターネットの言葉というのは、どこかラジオのトーク番組に似ている。あのやくたいのなさというか、頭の隅にちょこっとだけ引っかかって、それだけですぐに流れていってしまう感じ。“おしゃべり”の楽しさと浪費感というのは、それだけで立派なエンタテインメントなので、大滝詠一の番組もまた、何を話していたのかまったく記憶に残ってないのだが、それでも「なんとなく楽しかった」という感触だけが手元にある。


■ラジオの“おしゃべり”の楽しさというのは、例えばテレビと比較してみるとよくわかる。テレビで最も重要なのは“ネタ”である。雰囲気でも演出でもない。かつて蓮実重彦は、テレビを「文字のメディアだ」と語っていたが(そして、今のテレビ番組を覆っているテロップの氾濫を見れば一目瞭然なのだが)、要するに“今そこで何が起きているか”を端的に指し示すとき、文字は絶大な威力を発揮する。つまりテレビは、浪費される“おしゃべり”ではなく、確実に伝播する“ネタ”に向いたメディアのように、思ったりする。


■“ネタ”と“おしゃべり”。この対立は、人類の歩みと同じほどの長さを持つ。かつてギリシアのポリスでは、政治問題を語るために議会が開かれた。これはつまり、私たちが普段行っている“おしゃべり”を切り離し、政治という“ネタ”に専念するための空間設計を行った、ということでもある。事実、議会に参加できたのは、ごく限られた貴族たちだけだった。多くの女性や奴隷たちは“ネタ”の空間に参加することすら許されなかったのである。


■……というのは、まあ冗談だけれども“ネタ”と“おしゃべり”というのは、厳然と区別されるものなのである。そして“おしゃべり”は“ネタ”に常に敗北する運命にある。世の中の人の注目を集めるのは、いつだって、共通の話題として簡単に流通する“ネタ”であって、会話の掛け合いやその場を漂う雰囲気。のようなものは、非常に流通しづらい。翻って、インターネットの言葉にとって、何が最も重要視されているかというと……そう、語られている内容はもちろんだが、それよりむしろ、場の状況であり雰囲気であり、発言のタイミングであり、ある空気を生み出すジャーゴン(方言)である。


■もうひとつ付け加えておくと……“ネタ”は流通し消費されるが“おしゃべり”は流通を拒否し、決して消費されない。


■で、何の話かというと、僕は漫才という形式にひどく愛着があるのだが、きっと漫才が、世間一般的に“一番面白い芸”と認められることはない、という話なのである。漫才は、常に2番手なのだ。


滝沢麻耶リンガフランカ』というマンガを読んでいて、一番驚いたのは、漫才が“おしゃべりを偽装したネタ芸”であることを喝破していた箇所だった。コントにおいて演者は、なんらかの役柄を演じる。医者と患者、警察官と犯人、先生と生徒。その役割のなかで、決められた筋を演じる。が、一方の漫才においては、演者は演者のまま、舞台の上に立つ。まるで素で会話している……ように見える。が、しかし、そこで交わされる会話は、あらかじめ何度も繰り返し練習されたものだったりするのだ(ダウンタウンのフリートークが衝撃的だったのは、その場で交わされている“おしゃべり”が、まるで“何度も練習されたもの”のように見えたからだった)。


■しかも漫才においては、その“ネタ”がまるで「その場で思いつかれた」かのように振舞われることが、なによりも重要だったりする。やくたいもない“おしゃべり”のように見えなければ、芸としては失敗なのだ。なんと厳しい道のりだろう。何度もネタ合わせをし、繰り返し練習したあげく「ネタ合わせもしていなければ、練習もしていない」ように“偽装”しなければならないとは。……それだったら、コントや一発芸の練習をした方が、はるかに効率がいいのではないか。


■かくして、M-1で優勝したアンタッチャブルも僕の大好きなPOISON GIRL BANDも、レイザーラモンHGの“フゥーッ!!”の圧倒的なパワーの前に、敗れ去るのだった。