久しぶりにゲームの話

■「続きを書く」とか言っておいて、放ったらかしになってますが。まあ、気が向いたときに更新、が基本方針なので。申し訳ない。


■で、全然別の話。久しぶりにビデオゲームの話です。稲葉振一郎さんのとこのはてなダイアリーで、「ビデオゲームと公共性」についてのレジュメが上がっているのですが(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629)、面白いなーと思ったことが3点。


■まずひとつが、ゲームを「フィジカルなスポーツ」になぞらえている点。これは「ゲーマー」という特殊な職業に対する考察から出てきた論点だけど、ついこの間、韓国に行ってきた人から、向こうのゲーム事情について話を聞く機会があって。韓国では「プロゲーマー」が存在する、というのはもう有名な話ですが、なんかゲームチャンネルみたいなのがケーブルで2つくらいあるらしく、そこでは「プロゲーマー」たちの華麗な演技をずっと流してるんだそうだ。あと、ゲーム雑誌もいくつかあるんだけど、そんな「プロゲーマー」のグラビアが半分くらいを占めているらしい。自分の目で確かめたわけじゃないんだけど、そういう意味でも、ゲームはスポーツに近いところがあるんだろう。スタープレイヤーの存在、というか。


■で、彼らの年収って600万くらいなんだって(あくまで伝聞ですけど)。ちょっと稼ぐサラリーマンくらいか。韓国の平均年収がどれくらいかわかんないんだけど、確かに「ゲーム」という「メジャースポーツ」に比べれば比較的小さなジャンルでは、これくらいの金額が妥当なのかな、とは思う。


■2点目は、「相手をしてくれるメディア」としてのビデオゲーム、という論点。この論点自体は、桝山寛の『テレビゲーム文化論』からのものだけれど、その向かう先として、ひとつに「人工知能」が、もう一方に「ネットワークゲーム」が想定されている。んで、どちらにも共通していえるのが、プレイヤーのアクションに対して、何が返ってくるか、想定しにくいということだ。いや、「想定しにくい」んじゃないなあ。ある程度想定はできるんだけど、ときどきビックリするようなリアクションが返ってくる。つまり、ある程度のルールに則ってるから、だいたいの予想はつくんだけど、その予想は「ときどきひっくり返る」というか。


■んで、このくだりを読んでるときに、ふと思い出したのは『ガンパレード・マーチ』のことで、あのゲームは「人工知能で物語をやる」ってのが(制作者側の)目的のひとつだった。その現状での究極形は『絢爛舞踏祭』だと思うんだけど、人工知能にドラマが可能なのか? という、結構大きな問題に、あの作品は挑戦していたように思う。


■そして『ガンパレ』は、発売されたあとにジワジワと支持を集めた作品だけど、この部分で3つ目の、そして最大の論点とリンクする。つまり「プレイヤーの創造性とそれが生む公共性」。稲葉さんも書いているように、ビデオゲームというのは、思っている以上に不自由なジャンルだったりする。モニターの上に起こる現象は、基本的に「あらかじめプログラムされたもの、の再現」でしかない。その意味でプレイヤーは、制作者の意図から外れることは、決してない。が、同時に――稲葉さんが「やり込み」や「バグ技」に即して書いているように――制作者が想定していなかった、さまざまな「遊び」が可能だったりもする。つまり、限定されてはいるものの、確かにそこには「創造性」がある。


■そして面白いのは、そうした「創造性」が、ある種の「公共性」を生み出すというところだ。つまり、モニターの外の――僕たちが生きているこの空間に、そうやって創造したいろんな「テクニック」や「発見」が流通する回路がある。それは、公共のものとして流通したときに、共有の財産としてプレイヤーたちの間に所有される。稲葉さんの文章では『ポケモン』や『ドラクエ』に即して書かれていたけれど、『ガンパレ』の発売後に、開発元であるアルファシステムのBBSで起こった騒動は、こうした観点からも検討の余地があるんじゃないかな、と。


■ここで唐突に結論めいたことをいうと、そういう「モニター外のコミュニケーション」を、作品の制作者がどう担保しておくか(想定した上で作品制作にあたるか)が、すごく重要なのだろうな、と。『ポケモン』の制作者である田尻智は、あきらかにそこに意識的な制作者だった(それは僕が書いた、彼へのインタビュー集『ポケモンをつくった男』を読んでもらえればわかる)。『ガンパレ』のときの、芝村裕吏もそう。今、思えば『バーチャファイター』の熱狂とか、『ゼビウス』騒動とか、思い当たる事例は山ほどある。


■だけどそれって、どこまで制作者が意識できるものなんだろう? 謎だらけの作品をつくれば、そうした「公共性」が活性されるのか? そんなことはないハズ。あるいは、どれくらいの数が売れれば、最初の「公共性」は構築されるのか? 『ポケモン』のブレイクは、マンガとのメディアミックスが最初のきっかけになった。『ガンパレ』は、実は言われるほど売れてないって事実もある(それで、あの熱狂が生み出せるのだ)。星の数ほど、ビデオゲームは発売されているけれど、そんな「公共性」を獲得できた作品なんて、ほんのひと握りだ。


■あと、それってビデオゲームだけに限った話ではないよなあ。アニメでもマンガでも文学でも音楽でも映画でもみんな、そういう「公共性」が問題だったんじゃないの? と思ったりはする。つまり、受け手の「語り」を誘発する作品って、どんな魅力があるんだろう? ってことなのだけれども。