新房昭之監督作をめぐって

■先日告知をした「アニメの門〜場外乱闘編〜VOL.6」、無事終了いたしました。おかげさまで、大勢のお客さんにご来場いただけて、ホッとひと安心。会場で発表された、アニメ十大ニュースの詳細は、藤津さんのサイトで紹介されています(http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65172692.html)。


■で、イベント終了後の打ち上げの席で、ライターの前田久くん(id:mae-9)から「SHAFTが注目だったのは一昨年でしょう」と指摘をいただいて、いや、まったくそれはその通り。……なんですけど、むしろ僕の念頭にあったのは、森義博と鈴木利正が演出・コンテをやった『かのこん』第6話とか、『ひだまりスケッチ』第1期のチーフディレクターを務めた上坪亮樹によるテレビアニメ版『今日の5の2』の第2・8話、あとこれはステージ上でも話した福田道生の初監督作品『ヒャッコ』でした。彼らはそれぞれ、SHAFT作品(というか、新房昭之監督の作品といった方がいいかと思うのですが)に関わる以前から活動している演出家なわけですが、上に列記した(SHAFT制作ではない)作品の担当話数を観ると、どうもある共通点がある。それはもしかすると、『月詠 -MOON PHASE-』や『ぱにぽにだっしゅ!』『ネギま!?』といった諸作での演出・コンテとしての経験が、かなり直接的な形で、彼らのフィルムに現れ始めているんじゃなかろうか。……そんなふうな感じがあるのです。


■さて、その共通点というのは、どういうものなのか。ざっくり言うと「いかに画面を構成するか」という問題意識なのですが、それは文字の多用(しかもその文字は、さまざまなフォントや手書き文字など、複数の種類が併用される)だったり、書き割り風の背景だったり、あるいはキャラクターのバストアップを回避するような大胆な画面レイアウトだったり、いろんな表れ方をしている。いわば私たちが慣れ親しんでいる「リアリズム」の技法の外、とも言えるかもしれない。


■そこで思い出したのが、去年発表された黒瀬陽平id:kaichoo)の論文「キャラクターが、見ている」(『思想地図』vol.1に所収)のことです。実際、この論文では新房昭之監督の『ぱにぽにだっしゅ!』についても言及されていて、例えば、結論部で討議されている京都アニメーションの諸作よりも、むしろSHAFT作品の読解として読んだ方がすんなりくるところが多い。そしてこの論文の面白いところは、遠近法的な技法とは異なる技法が映像を形作っている。その運動に注目しているところにあるわけです。


■黒瀬は、この論文のなかで、遠近法と対立する(あるいは、そうした遠近法をも内包する、オルタナティブな)技法として――美術の世界ではさまざまな議論があった、としながらも――イコンやモザイク画に代表される「逆遠近法」という技法(というか概念)を提出しています。それは、彼の言葉を借りれば、「空間を成立させる超越的な視点を、画面の内側に設定する技法」ということになるのですが、そこで問題になるのは、遠近法によって実現されるリアリティ(もっともらしさ)ではない。むしろ、ひとつひとつの画面を、いかに“絵”として成立させるのか。それこそ、聖者や聖母が描かれたイコンのような“絵としての強度”こそが問題となる。


■新房監督の作品を見ていて否応なく気づかされるのは、画面のなかで起こる出来事が、いわゆるリアリズムの範疇に収まりきらない“余剰”を孕んでいるということです。例えば、いわゆる黒板ネタ。カットが切り替わるごとに、黒板に書かれている文字がどんどん変わっていくわけですが、「誰が、どのように黒板の文字を書き換えているのか」は、まったく問題にされない。そこにリアリズムは存在しない。あくまで「それはそういうもの」として、画面が構成されているわけです。宇宙人やチュパカブラが跋扈したかと思えば、キャラクターがごく当たり前のように死んだり生き返ったりし、鼻血を出す宮前かなこが、次のカットでは平然と笑顔を浮かべていたりもする新房監督の作品では、むしろリアリティを回避するために、思いつく限りのありとあらゆる手法が動員されている。――いや、遠近法的なリアリズムさえも、“絵”を作るためのひとつの手法でしかない。そんな印象があります。


■去年、『まりあほりっく』の取材で新房監督にお話を伺ったときに、強く印象に残ったのは「背景を見ただけで、その作品だとわかるようにしたい」という言葉でした。「だって、白土三平のアニメって、背景だけの画面(いわゆる「BGオンリー」ですね)を見ても“白土三平だ”ってわかるでしょう?」と。その言葉から、いかに新房監督が「ひとつの画面を成立させること」に執着しているか、がわかるような気がします。


■もちろんアニメは――それは「映画は」といっても同じことですが――絵画とは異なる芸術形態です。なによりも映画は、時間という、これまた厄介な要素を、不可避的に含んでしまう。始まりから終わりまで“絵”で埋まっている、ある一定の時間を、私たちは「映画」と呼んでいる、とさえ言っていい。黒瀬論文の弱点は実は、ここにあるのではないかと思うわけです。黒瀬が、この論文で大きく依拠している東浩紀id:hazuma)のデータベース消費論――これはつまり“作品”を、何度も繰り返し引用可能な、いわばキャラクターのデータベースソースに見立てるという考え方ですが、そこではなかば必然的に、作品の“無時間性”が強調されている。この“無時間性”に引きずられて、映画が時間芸術であることが、ほとんど省みられていないように思いました。どれだけキャラクターが成長しなくても、1本のフィルムには始まりがあり、終わりがある。否応なしに、ある一定の時間が流れざるを得ないのです。蓮実重彦がある文章のなかで書き記しているように「上映時間零秒」の映画というのは、「ありうべからざる映画」なのです。


■言い換えれば、新房監督の諸作は、そのような「ありうべからざる映画」を夢想するような、そういう類の映画なのではないか。


■あと付け加えておくと、東浩紀の言う「データベース消費」的な考え方は、なにもごく最近始まったものではない。例えば、ワーナー・ブラザーズのアニメーション・シリーズとして、1930年代から始まった「ルーニー・テューンズ」。そこでは、バッグス・バニーダフィー・ダックトゥイーティー、シルベスターといったキャラクターたちが、無時間的な世界のなかで、終わることのない狂騒を繰り返している。先日、「ルーニー・テューンズの黄金時代」というドキュメンタリーを見ていたのですが、そこで、ワーナーに彼らのスタジオ(ターマイト・テラス)を売却したプロデューサー、レオン・シュレジンガーに対して、関係者のひとりが「彼は、自分がうまくやったつもりでいた。なにより大切な“キャラクター”を売り渡したことに気づいていなかったんだ」と述べていたのが、印象的でした。つまり「ルーニー・テューンズ」の“売り”は、なによりもキャラクターだったのです。


■バッグスたちの際限ない追いかけっこ――そして、彼らの後継者であるMGM社の「トムとジェリー」の楽しさは、なによりも、変幻自在なデフォルメーションにあります。爆弾で吹っ飛ばされ、倒れてきた壁にペシャンコにされ、傘やら瓶やら玉やら、ありとあらゆる形状に変化する、まるでゴムのような彼らの身体は、どこまでも柔らかく、素早い。そこでは、既存のリアリズムなど、はなから問題とされていません(そこがディズニーとの大きな違いでしょう)。そして、この速さと強度は、どこか僕に、日本映画の50年代を支えた何人かの監督――鈴木清順井上梅次市川崑中平康、そしてなにより増村保造の作品に漂う「モダニズム」を想起させるのです。

(※2009.2.3追記 『ネギま!?』のタイトルが間違ってたり、東浩紀さんが「はてな」に復帰してたのに今ごろ気づいたりしたので、修正しました)