『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』

■僕には作品(小説でも評論でも音楽でも映画でもマンガでも)をある種の構造として接するという癖がある。そして、この癖の原因は、相原コージ竹熊健太郎サルでも描けるまんが教室』と蓮実重彦のいくつかの評論と、大滝詠一のファーストアルバムのライナーノーツ(自身の手による)だった。


■例えば「物語を語ることを主眼にした映画は90分程度に収まる」というセオリーは、蓮実の映画評論を通じて学んだことだ。もちろん「90分程度に収まっていればいい」というわけではなく、そこからハミ出してしまうものをどう判断するかが重要なのはいうまでもないことだけれど、表現形式が表現する内容を規定する、ということを僕はこれらの批評で知った。僕が週刊連載漫画を読むときには『サルまん』を無意識のうちに参照しているし、レコードを聞くときにはポップアルバムの成り立ちについて触れた大滝の文章をなんとなく前提にしている。


■そしてもちろん、自分で文章を書くときにもやっぱりそういうことが頭の隅にある。僕にとっては、「何を書くか」と同じくらいに「どういう形式で書くか」が重要で、そしてその発想の大元になるのが、なぜかいつも音楽だったりする。例えばこの間出した『田尻智 ポケモンを創った男』という本を書いていたとき、僕は「なるべくライブ感を重視しよう」と思っていた(だから、実は「CONTINUE」掲載時には編集で繋いでいた話が、飛び飛びに出てきてたりする)。つまり「ライブ盤」のような本として、『田尻智』は構想されている。振り返ると、この本はふたりのソリストが行った5回のセッションをまとめたもの、だったのかな、なんて思う。もちろん向こうは超有名なサックスプレイヤーで、こっちはさほど名前の知られていないベーシスト。くらいのもんだろうけれど。


■この伝でいくと、その前に出した『ジョジョの奇妙な冒険2』は、荒木先生の『ジョジョ』のリミックスバージョンだったんだなあ、なんて思ったり。例えば、ジョルノたちメンバーのスタンドがすべてパンクまでのバンドから名前が採られているのに対して、僕は新たなスタンドをザ・キュア、ジョイ・ディヴィジョン、パブリック・イメージ・リミテッド、と名づけた。つまり、ニューウェーブ以降のバンドから採ったわけだ。そしてその裏には、ロックとニューウェーブを対置させながら、互い違いにミックスしていこう、という意図があった(さらに言えば、ザ・キュアを操っている少女が事件のあとアメリカへ行って、自分の居場所を確保する……というのは、実際のザ・キュアのバンドヒストリーにちなんでいるし、さらにさらに、ジョイ・ディヴィジョンは一度倒されたあと、ニュー・オーダーとして復活を遂げるという展開も考えていた。これはさすがにやりすぎだと思ったので、やめたんだけど)。


■……なんてことを、竹熊の新しいエッセイ集『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』を読みながら強烈に思い出したりしました。