世界の中心で叫びたい日本語。

■ええと、4月30日にアンダーセル主催のイベント「bootleg! vol.2」が開催されました。大勢のご来場をいただき大変ありがとうございました。僕は、イベント開始直前にちょこっと設営をお手伝いしたのと、あとは楽屋に貼りついていただけなので、とてもスタッフの一員とはいえないのですが、楽しんでいただけたでしょうか。イベントの最中、楽屋ではなぜか「セカイ系」というフレーズが流行りまくっていました。曰く「神山健治セカイ系」。曰く「セカイ系とクールアニメを制覇した佐藤大に、もう恐いモノはない」。ははは。なんてタチの悪い冗談だ。


■「セカイ系」というのは、「世界と主人公を(国家や国や地域のコミュニティや身の回りの人々という回路を通さずに)直接結びつける」ような作品群。のことらしい、たぶん。でも、そんなことをいいはじめたら、主人公が世界と直接に対話する物語というのはけっこう昔からあるし、それこそロックの歌詞にはこの手のフレーズは掃いて捨てるほどあって、あと、世界変革の可能性を骨子のひとつとしているSFというジャンルは、まさに「主人公(や登場人物たち)の認識が、そのまま世界を変える」作品の宝庫でもある。具体的に名前を挙げつらわなくっても、ほら、あれとかあれとかあれとかね。そんななかでも僕の大好きなのは、R・A・ラファティの「われらかくシャルルマーニを悩ませたり」という短編で、これはラファティファンならお馴染み〈研究所〉のメンバーが、とある歴史的事件に介入しようとしたあげく、世界を丸ごと(しかもラファティらしく3度も!)ひっくり返してしまい、しかも本人たちはそのことにまったく気づかないという爆笑譚。あと、最近なら殊能将之黒い仏』もよかったなあ……というのは、閑話休題


■で「セカイ系」の代表例としてよく名前を挙げられるのが上遠野浩平ブギーポップは笑わない』で、この作品のユニークな点は、主人公の宮下藤花が「世界」の危機に応じて〈自動的〉にブギーポップへと変化するという設定にあった……ということは、以前の日誌で触れた通り。つまり、宮下=ブギーポップは、世界の守護者であり、世界の秩序を壊乱しようとする者に対して圧倒的な力をふるう。そしてここが肝心なのだけれど、彼女/彼自身はなぜ自分が呼び出されたのかを知らない。ただ「世界に危機が近づいている」という恐ろしく抽象的な事項にフラグが立つと、〈自動的〉に彼/彼女が呼び出される。ゆえに、彼/彼女は「世界を守る」ことの動機をまったく持っていない。ただ呼び出され、目の前に起こりつつある事変を処理し去っていく、まるで「消火器」みたいな存在だ。ここが決定的に目新しかった。バットマンスパイダーマンが自己の正義の有り様にもがき苦しんでいる間に、「
世界」そのものの権化のように振る舞う“超人”が現れてしまったのだから。


■がしかし、『ブギーポップ』シリーズは2作目以降、ブギーポップ/宮下藤花を物語の主軸に据えることを止めてしまう。これ、実は創作者の立場に立ってみると、すげえよくわかる。「世界」そのものであるような〈正義の味方〉なんて、どう考えても動きようがない。何せ、彼/彼女が動けば、世界は終わるか続くかのどちらかしかないんだから。ある意味、1回こっきりの大技ではあったのだ。上遠野は、これ以降『ブギーポップ』シリーズを、異能力者たちの権力紛争の物語へとシフトチェンジすることになるのだけれど、それも致し方ないことだったのだろう(そして『ブギーポップ』シリーズでは破棄された「認識による世界変革」というテーマは、徳間デュアル文庫の〈ナイトウォッチ三部作〉に引き継がれていく)。


■と、ここまで書き進めてきてふと気づくのだが、この上遠野の逡巡は、実は「セカイ系」の根幹部分に関わる問題なのかもしれない。つまり、世界をどのような場所として見出すか。という。『ブギーポップ』の2作目以降、ブギーポップのほとんど登場しない異能者たちの争いを描いた挙げ句、ついには“死神(ブギーポップ)が現れない”ことを謳った『ビートのディシプリン』を書くことの裏には、世界を「さまざまに矛盾する、権力や欲望が交錯する場所」として設定しなおそう、という意図があるんじゃないか。それこそ、講談社ノベルスの〈戦地調停士ED〉シリーズは、そんな「さまざまに矛盾する権力や欲望」を〈調停〉することを、物語の中心に据えている。そして、その構想はなんだか、ジョン・ル・カレが冷戦時代の複雑奇怪な思想闘争をバックに描いた〈スマイリー三部作〉あたりを想起させたりもするのだが。