『下妻物語』を観に行く。

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]


■どうにも調子があまりよくない感じが続いていて、あっちでイライラ、こっちでムカムカと妙に怒りっぽくなっている昨今なのですが、そういうときには映画を観るに限る。というわけでビデオで『ジュラシックパークIII』とか『ハンテッド』を鑑賞したり、はたまた劇場まで足を伸ばして『レディ・キラー』を観たり。


■ナカガワくん(別名:海猫沢めろん先生)がオススメしてるというのを噂で聞いて、というかあの深田恭子が、あの深田恭子が、あの深田恭子が(3回繰り返してみる)主演する映画はいろんな意味で面白いに違いなく、『下妻物語』を観に行く。が、こちらの予想を遙かに上まわって『下妻物語』は、しごく真っ当に面白い映画だった。何がいいって、女の子ふたりの心の交歓が描かれるこの映画は、いかにもコメディらしく各登場人物の役回りが恐ろしくくっきりとわけられている(つまりステレオタイプにデフォルメされた人しか出てこない)。そこにまず、制作者のコメディに対する感受性の高さを感じる。主人公のモモコ(深田恭子)は、ロココに憧れるロリータで、ロリータらしくわがままで自己中心的で、わがままで自己中心的であるがゆえに孤独でもある。対するヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)は、ヤンキーらしくダチとの連携を何よりも重んじ、しかも高校デビュー前はクラスのイジメられっ子だったという筋金入りのヤンキーで、何よりもダチと原付をブッ飛ばすことに人生のすべてを駆けている。


■この見事なまでの対照。そしてもちろん物語の常として、モモコが“他者”の存在を、連携しうる“他者”としてのイチゴを見つけることが主題となる。で、話はずーっと彼女の視点から描かれていき、つまりモモコの日常に介入してくるイチゴ、という構図のもとで物語は進んでいくのだが、僕はこのまま行くとヤバいな、と思いつつ、ハラハラしながら観ていた。だって、それでは実につまらないのだ。孤独な近代的知識人であるところのモモコが“連携”を見出すというのはあまりに陳腐だから。もちろん陳腐であること、通俗であることの強さもあったりはするんだが、そうなると、イチゴがなぜにモモコにここまで執拗に関わろうとするのか、がわからなくなる。


■そんなことを思いながら、スクリーンを見つめていて、そのクライマックス。族を抜けるためにリンチを受けるイチゴが、彼女を助けにきたモモコに対して「そいつはダチじゃない」と言い捨てる。ここだ。僕は、ここで不覚にも泣いてしまった。彼女はモモコとの“連携”を通して、“孤立”することの美しさを見出すのだ。つまりここで、ふたりの物語での役割がひっくり返る。しかも、この決定的なひと言を口にするイチゴの表情が、とてつもなく美しい。彼女は、この映画において、常に決定的なひと言をボソッとつぶやく人である。だから、下手をすると観客は彼女のセリフを聞き逃してしまいそうになる。が、その羞恥心は、イチゴという人物に深みを与える。ギャーギャー騒いでるだけでもなく、かといって、ここぞというときに発する決めゼリフはどこかで聞いたことのある物語に毒されているイチゴが、どこまでも凡庸な人だ。しかしそんな彼女が、実は誰よりも(近代的知識人であるモモコよりも!)物事を見抜いているということ。しかも、見抜いていること自体が、彼女を恥ずかしくさせているということ。この2点で、彼女の「ダチじゃない」というセリフは観客の胸を撃ち抜く。


ステレオタイプなデフォルメをやりながら、肝心のところでその構図をクイッとヒネる。この手つきの見事さには、ほんとうに驚かされたし、ああ、コメディって、これからある意味、すごく重要なポイントになるかもしれないとも思った。