悪魔のミカタと甲賀忍法帖。

甲賀忍法帖 (角川文庫)


■お久しぶりです。と書くのも何度目だよって話ですが。だいたいこんなに更新しないページ、いったい誰が読むんでしょうね。


■最近どんどんモノ忘れパワーが強くなりつつあり、ほぼ2徹の状態でbootleg!に行って、打ち上げも早々に引き上げ翌朝一番の新幹線に飛び乗り、友達の結婚式に出席して、そのまま梅田で飲んで終電の新幹線で東京に戻ってきたりしたら、もう、ついこの間まで何をしていたのかさえよくわからなくなっていたりするのですが、約10年ぶりに山田風太郎の『甲賀忍法帖』を読みました。そんで、うーむ。と。


■『甲賀忍法帖』は、ものすごく構造がシンプルなんですよ。伊賀と甲賀の精鋭10人がそれぞれ戦って、いろいろあって、最後に両方のリーダーが自害して、終わり。何が「ものすごくシンプル」なのかというと、伊賀対甲賀の構図が、最後までシンメトリーになっている、シンメトリーを貫いているところがシンプルで、すごいわけです。これはもう原物を実際に当たってもらえばわかることですが、例えば、甲賀代表の弦之介と伊賀代表の朧は、いずれも“相手を見る”ことで能力を発揮する能力者で、しかも物語のごく序盤で、ふたりがふたりとも、その能力が封じられてしまう。あと、甲賀最大の術者である陽炎が、首領である弦之介に決して実らぬ恋心を抱いているのと同様に、伊賀の不死身の男・薬師寺天膳が朧によこしまな欲望を抱いているところとか。そしてそして、弦之介と朧が互いに自害して果てるという凄惨かつ哀しいラストシーンは、物語冒頭での甲賀弾正とお幻の戦いのシークエンスの正確な反復になっているわけです。ま、こんなこと僕がわざわざ指摘するまでもないですが。


■つまり、何を言いたいかというと、この物語を支配しているのはあくまでも“構造”なんだ、と。伊賀と甲賀の精鋭20人がグロテスクな忍法を駆使して戦う、というと、どこかキャラクター重視の作品みたいな感じがするんだけども、決してそうじゃない。『ジョジョの奇妙な冒険』とかね、そういうものの原型のような気がしてたんだけども、全然違うじゃん、と。むしろ途中の戦いは、いずれも驚くほどあっさり決着が着いてしまう。ま、わずか350ページ足らずで20人全員が死んでしまうわけだから、平均17ページで死者1人。しかも戦闘シーンばっかり続くわけじゃないし、むしろ戦闘はあっという間に片が付く。つまり、各人の“キャラクター性”が駆使されるであろう戦闘シーンはほとんどない。


■というのは、実はこのあとにうえお久光の『悪魔のミカタ』の最新刊を読んだんですが、このシリーズは、現在までに13巻まで出てて、人気があるのかないのか僕はよく知りませんが、なんかヘンなことが起こってるなあと思いつつダラダラ読み続けてるシリーズで、何がヘンって第8巻以降、“It編”というシリーズに入っているんだけど、これがホントにまあ、驚くほど終わらない。正確にはこの間出たばかりの13巻で終結したんだけども、結果“It編”だけで1600ページ近くの超長編、しかも主人公の堂島コウはほとんど出番なし、というシリーズ物としてはかなり歪んだ構成になっている。この作者は、だんだん作品が長くなる傾向にあるんだけども、その原因は、そう前述の“キャラクター”の問題にあるような気がしてるんですよ。


■物語とは、端的にいって複数のシークエンスの積み重ね――ある原因がある結果を生み、その結果がまた新たな原因となって次の結果を生む、そしてまたそれが……という一連の連鎖なわけです。作者はこの連鎖をときにわかりやすく、ときにねじ曲げ、ときに順序を入れ替え、といった具合に操作していく。そこで重要なのは、“何を語り、何を語らないか”の選択です。『悪魔のミカタ』がこれだけ逸脱した――というのは、僕自身はこの物語を描くのに1600ページも必要がないと感じてしまうからなのだけども――理由のひとつは、この“語らない”ことの要請に作者が耐えられなかったことにあるんじゃないかと思ったりするわけです。


■確かに“It編”の物語は複雑で、登場人物も多い。しかし、登場人物のひとりひとりの“戦い”を丹念に追ってしまっては、全体の構造が見えなくなってしまう。そこで『悪魔のミカタ』の作者は、ひとりひとりのキャラクターの内面に物語全体に通じるような“根拠”を設定しようとします。だから読めば一目瞭然ですが、この物語に登場する人たちは恐ろしく饒舌です。寡黙なキャラであっても、自分の思っていることをそのまま口に出して言う。しかも恐ろしいことに、彼らは言ってることとやってることが一致してる。加えて、吸血鬼の精神的なネットワーク“オード”という存在によって“内面”がそのまま表出するという仕掛けまである。そうやって、各キャラクターの“戦う動機”を追いかけることが、そのまま長さになってしまっているということです。ここでは積極的に“語る”ことが選ばれている。


■で、『甲賀忍法帖』です。『甲賀忍法帖』では20数人という主要キャラクターの多さ――そして語られていることの馬鹿馬鹿しさにも関わらず、文庫本で約340ページという短さに収まっている。その原因は、さきほど言及したように、最後まで「甲賀対伊賀」という構図のシンメトリーを崩すまいとする要請に従っていることにある。つまり、キャラクターの内面もまた、構図のシンメトリーに寄与する限りにおいて認められる。それはもしかすると『甲賀忍法帖』という作品の古さなのかもしれないし、また『悪魔のミカタ』の饒舌さを見るときの鍵になるんじゃないかな、と思ったりするんですが。