『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』

歌舞伎町のミッドナイト・フットボール―世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間



菊地成孔の新しいエッセイ集『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』――なかでも巻頭に収められたごく短い小説「ミスタードーナツシュトックハウゼン」を読んで、なるほどと思ったことがあった。それは、僕がなぜシンセサイザー音楽が苦手で、ヒップホップに惹かれるのか、ということだったりもするのだが、この掌編で菊地は(というか、この小説の語り手は)、ピエール・シェフェールの“ムジーク・コンクレート(具体音楽)”とシュトックハウゼンの“電子音楽”を、対立/補完するワンセットと見なす。つまり、「自然音を編集、変質させる方法」であるムジーク・コンクレートと、「電子音の純粋な周波数によって、あらゆる音を合成する」電子音楽の、対立/補完。そして、この対立/補完は、前者はサンプリングマシンに、後者はシンセサイザーへ集約していくことで、現代まで受け継がれることになった……という歴史の枠組を描く。


■ただし、この小説自体、史実を基にしながら、微妙に時間軸をずらすという巧妙な仕掛けを持った作品なので鵜呑みにするのは危険。なのだが、つまり第二次世界大戦によって生み出されたテクノロジーが、電気を使った音楽という形式に新たな発展をもたらし、その流れは自然音をサンプリングする“ムジーク・コンクレート”と、波形編集によって音を合成する“電子音楽”というふたつの手法に集約していった、ということはいえるように思う。もちろん、このふたつは、単純に対立しているわけではないし、ミュージシャンの多くは両方を器用に使いこなすことで作品を作り出している。例えば、電子音楽の第一人者であるこの小説の主人公・シュトックハウゼン自身、95年にはヘリコプターを使った楽曲を発表しているのだ。これなんかある種の“具体音楽”の極み。みたいなもんである。自然の音を取り込む、という意味では。


■そんなことをつらつら考えながら、毎月恒例になった松浦雅也の連載対談(「ハイパーPS2」誌で連載)の取材に向かったのだが、松浦はそれこそシンセサイザー音楽の歴史とともに歩んできたような音楽家で、その彼が取材の席でたまたま「電子音楽の究極的なゴールのひとつに、人間の肉声を――正弦波とかの純粋な波形を変調させて、合成することってのがあるんだよ」という話をしていて、うーむ、そうなのかあ、と思う。つまり、人間の声を純粋にゼロからつくり出そうとする(そしてそれはいまだ、完全な形では達成されていない)のが“電子音楽”、人間の声を録音・加工して使うのが“ムジーク・コンクレート”(=“サンプリング・ミュージック”)。あと、セミの声ってのも、いまだに電子音楽ではつくれないそうです。


■もうひとつ『歌舞伎町〜』を読んでて気づいたのは、ヒップホップの面白さってことで、なんとなくずっと言葉にできてなかったんだけど、その大きな要素のひとつがアフリカのリズムの使用、というところにあったんだあ、という事実に気づいた。以下、ちょっと引用。「アフリカでは最も基本的である6連符の使用(ここで言う使用。は、単に6連符で音を出すだけでなく、6連符が4連符と絡み、うねることで生じる、訛りというか、遅れやつんのめりの発生を包括して指します)」。訛り、ってのは独特の菊地用語のひとつだけども、そうか、この“うねり”みたいなものが面白さのひとつなんだってことに、今さら気づいた次第。最近どうもインストゥルメンタルのヒップホップが苦手になりつつある原因は、ここらへんにあるのかもしれん。