『映画の魔』

映画の魔



高橋洋『映画の魔』の素晴らしさについては、今売りの『映画秘宝』に掲載されている柳下毅一郎の書評でほぼ言い尽くされているように思うのだけれども、僕が個人的にこの本のなかで一番興味を持ったのは、高橋による「悲劇/喜劇」と「メロドラマ」の区分。の部分で、この図式を導入することで作劇のアレコレについてうんうんと唸っている頭がずいぶんすっきりクリアになったような気もしている。それはつまり、恐ろしく単純化して言うなら、神の介入によって物語の表面に、登場人物たちの棲む世界に亀裂が走る。それをどのように描くか、という問題に対して、「悲劇/喜劇」として描くというのと、「メロドラマ」として描くという、ふたつの回答がある。ということのなのだけれども。


■高橋はメロドラマの定義を、加藤幹郎から引く。「過剰なる感情のための過剰なる形式」。つまりメロドラマとは、人間の感情に関する物語であり、演出者の認識は登場人物から離れることはない。が、ここで注意しなければならないのは、それがあくまで「過剰」なことで、ようするに怒りも悲しみも笑いも、物語に付随するありとあらゆる感情が、メチャメチャに詰め込まれハレーションを起こしているような事態、それを「メロドラマ」と呼ぶ。「観客を泣かせるためならば手段を選ばないエゲツなさ」がつねに選択され――例えば「いまさら難病モノはないでしょ」とか「子供と動物を出すのは卑怯だ」というような、語り手の良識とか良心とかタブーとか禁則は、クソクラエなのだ。と同時に、その「エゲツナさ」の裏側に「人間の“幸福になりたい”という怨念のような激しい欲求が潜んでいる」ことも、高橋は忘れずに指摘する。


■ここで「怨念のような」激しさを見出すのが、いかにもといった感じなのだけれども、要するにある種の“激しさ”が“過剰さ”の源泉なのであって、しかもこの“激しさ”は、ちょっと油断すると常識の範囲内にそっくり吸収されてしまう。この下りを読んでいるときに僕が即座に思い出したのは、『神無月の巫女』というアニメの第1話のクライマックスシーンで、そこではロボットの必殺技のシーンが、主人公とその庇護者のキスシーンとカットバックされていて、僕はそれをアフレコ現場で見かけてから「ああ、なんかすげえヤバいことが起こってるような気がする」と思っていたのだが、ああ、そうか。要するに、ちゃんとメロドラマをやるというのは、こういう過剰さを呼びこまないと成立しないのである。


■もちろん、ただ過剰なシーンをつなぎ合わせればメロドラマになるかというと、決してそうではない。『神無月の巫女』のくだんのシーンが感動的なのは、主人公の少女とロボットの搭乗者である少年(彼は主人公を窮状から救おうとして必殺技を放つ)、そして主人公の少女とその庇護者という、3人のドロドロの三角関係、男女の性別すら越えた三角関係が暗示されるからで、つまり“嫉妬”という、さまざまな感情のなかでもとりわけ“過剰な”感情がこれから物語を突き動かすだろうことが予想されるからである。こうしたシーンを実現するために、どれほどのアイデアと思いつきと実作業が必要になるかは、少しでも物語を描こうと思ったことのある人ならわかってもらえると思うけど、まあ、大変なことなのだ。


■で、問題は「悲劇/喜劇」との区分である。メロドラマは、あくまでも人間の物語である。対して、悲劇/喜劇はそこに介入してくる神、というか非人間的な世界のあり様を描く。神の気まぐれにただひたすら耐え続けるヨブを、神の視点から描くということ。これが「悲劇/喜劇」のポイントである。ヨブの過剰さではなく、世界の過激さをこそ描く。これはもう、高橋洋がこれまでに発表してきた諸作――なかでも『復讐 運命の訪問者』『蛇の道』といった黒沢清とのタッグ、そしてなにより『リング2』――でイヤというほど試してきた手法なのであって、彼の作品を追いかけ続けてきた僕のような人にとっては、馴染み深いものなのだけれども。