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日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界 ブラック・ラグーン (2) (サンデーGXコミックス)


宮台真司仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』の始めんところをつらつら読みながら、最近ずっと同じことばっか考えてるんだなあ、と我ながら呆れる。『ブラック・ラグーン』のロックのセリフで言うなら「犬みたいに同じところをぐるぐる回って」る。しかも結論はいつだって同じなんだ。


■この本の比較的冒頭で宮台は、思想史を簡単に振り返る。まず最初にプラトン以前の、万物――世界に存在するものすべて、を取り扱うphysicsがあり、プラトンの登場によってmeta-physicsが始まる。このmeta-physicsは、通常“形而上学”と訳されるけれども、つまりは万物のメタレヴェル=世界の外にある“超越”を考える、ということ。ここで、超越と内在、外と内、という二元論が切り開かれるわけだ。あくまでも世界をひとつの塊として見る一元論的なphysicsに対して、metaphysicsは二元論。そしてmetaphysicsは、当時発祥した文字文化(エクリチュール)と密接に関係していた。というか、文字の発明抜きに形而上学は生まれ得なかったのだ……という経緯については、専門の本に当たってください。僕なんかが言っても、全然説得力がないんで。


■だから、その後にニーチェハイデガーを経由して登場した「現代思想」――例えばデリダとか、は文字に対する批判(エクリチュール批判)という形で出てくる。ここには、二元論的な世界の区分法、超越と内在を切り分けたうえで展開される発想、そのものに対する疑問がある。言い換えるなら、一元論的な世界の有り様への希求というか(これがハイデガーの本来性の議論に結びつくわけだけども)。しかし、現に文字を持ってくらし、文字なしでは生きていくことのできない私たちの世界は、不可避に二元論的である。つねに、いついかなる場面でも、私たちはついつい二元論的な超越と内在の区分を呼び寄せてしまう。しかし、それはある種の詐欺なのだという告発が、「現代思想」の基本モチーフなんですね。


■なんか難しい話だし、あまりにざっくりと整理しすぎてる気もするんだが、以前ここで書いた「“世界”はひとつしかない、“世界”には外はない」って話は、要するに、世界は一元論的なのだ、っていうことなんである。そして、そのような世界での振る舞いは――そこが『日常・共同体・アイロニー』のメインモチーフでもあるんだけど、是々非々で行くしかない。


■例えば、善悪の問題。一元論的な世界において、善悪を峻別する絶対的な基準はない。善悪の基準となるような、超越(世界の外からの判断)を原理的に持てないんだから。……だから、ある行為の――例えばイラクに爆弾を落とす行為が“悪”であるとか“善”であるという判断の根拠は、その人の所属している共同体の共通感覚にしかない。なんとなくまわりの人と共通しているだろう“感覚”だけが、その行為の善悪を峻別する。つまりこれは、一元論的な世界における、二元論的な発想にほかならないわけだけども、それは虚偽だというのが、「現代思想」の成果でもあったわけです。


■じゃあ実際問題、どう振る舞えばいいんだろう? というと、その場その場で、最善と思われる選択をして、その選択に責任を持つ。責任を持てないのであれば、正義を主張しないという方策が「現代思想」の出した結論なわけです。だって、何も選択しない、というわけにはいかないから。つーか、そんな面倒臭いのはやだ、もう僕は“善”も“悪”も選択しないと思っていても、「選択をしない」を選択したことになるってのは、自明の理なわけで。で、そこで問題になるのは、自分の選択に不満のある人に対して、これこれこうはこういうわけで……と説明できるかどうかが、分岐点だというのがデリダの主張(応答可能性の責任)。つまり事実性――私たちがどう振る舞ったか、こそが問題になる世界というのが、この私たちの生きている世界なんだと。


■とまあ「犬みたいに同じところをぐるぐる回って」るのがイヤで、こうして文章にしてみたんだが、やっぱりすっきりはしないねえ……。仕方ないことなんだけど。