んで『ブラック・ラグーン』の話

グロリア [DVD] デス バイ ディグリーズ 鉄拳:ニーナ・ウイリアムズ


■前回『ブラック・ラグーン』をちらっと取り上げたのは、小難しい話をするときにマンガとかも一緒に取り上げておけば幅が広がって(るように見えて)、気が利いてるじゃーん。というわけでは全然なくて、触れておきたい内容があったからなのだった。書き終えた頃にはすっかり忘れていたんだが。この健忘症をどうにかしたい。


■とにもかくにも、僕は女の子が出てきて銃をがんがん撃ちまくったり刀をぶんぶん振り回したりするのを見ると、ウヒー!ってなる。スガシカオ風に言うなら「ドキドキしちゃう」。まあ、秘宝ジャーゴンで言うところの“ボンクラ”だ。つーか、俺がボンクラなのかどうかとかそういうことはどうでもいい。犬上すくね目当てで読み始めた「サンデーGX」で今一番楽しみにしているのが『ブラック・ラグーン』なのである。だって、ホットパンツの入れ墨バリバリの中国系アメリカ人女子が二挺拳銃ってだけでノックアウトなのですもの。おほほ。


■だが、本格的にこの作品にのめり込んだのは、単行本第2巻に収録されているエピソード「Calm dowm,two men」を読んだからなのである。いっちゃなんだが、大立ち回りがあるわけでもない、どっちかというと地味目な、箸休め的なエピソードなんだが、僕はこの話が本当に好きだ。何度も何度も繰り返し読んじゃうくらい、好きだあ。


■この前のエピソードで、主人公(なのかな?)のロックと彼を海賊稼業に誘ったレヴィ(上のホットパンツ女)は、ちょっとした、しかし決定的な仲違いをする。それを受けてのエピソードなんだけど、レヴィはロックのことが信用できないのである。理由は単純明快。ロックは“あっち側の人間”で“こっち側の人間”とは違うから、違うことが絶対的にわかってしまったから。彼女で言う“あっち側”というのは、陽の当たる場所でのうのうと暮らしている真っ当な人たちのいる場所で、“こっち側”というのはドブと血の匂いで首んとこまでどっぷり浸かってるような世界。彼女が身を置いているアウトサイダーの場所なわけです。


■でいろいろあって一応、ふたりはなんとか元サヤに戻るんだが、レヴィはやっぱりすっきりしない。そこで彼女はロックに聞く。「なあ……ロック。一つだけだ、それを聞いたら面倒はねえ。お前、どっちの側にいたいんだ?」。それに対してロックはこう応える。「俺は――、俺が立ってるところにいる。それ以外のどこでもない」。


■というわけで前回の話につながる。世界を“あっち側”と“こっち側”に分けるレヴィを前にロックは、世界は結局のところひとつしかないし、そこでの居場所はココにしかない、と語る。ここで語られているのは「世界がひとつきりっきゃない」ということを知ってしまったあとにできる態度のあり方、についてだ。それゆえに彼は、このあとのエピソードでも“あっち側”と“こっち側”の間で、戸惑い、なんとか解決を見つけようとしたり、それに成功したかのように見えて失敗したりしている。自分が今立っているところ以外のどこにも“いることができない”という倫理。


■以前、ナムコの『デス・バイ・ディグリース』というアクションゲームの制作者に取材をしていて、彼の念頭にあったキャラクター像というのが『グロリア』のジーナ・ローランズだったという話を聞いて驚いたんだけども、そういえば彼女もまた、世界がひとつしかないとわかっていた。彼女は自分の子供を守るためならば、どんな危険な場所にも躊躇なく足を踏み込む。その躊躇のなさ。判断力。そこに漲っているものこそ、倫理なのだろうと思う。


■てゆうかよく考えるまでもなく、グロリアも銃をばんばん撃つ女の子なんだよな。ホットパンツも履いてないし、入れ墨もしてないけど。だいたい女の“子”っていうのが無理があるか。