僕が話す言葉の殆どはもう意味すらないよ

NANA (1)


時代劇専門チャンネルで『大江戸捜査網』第3シーズンが始まっていて、毎日楽しみで仕方がない。というのも、制作が日活から三船プロに移った影響か、非常にケレンの効いた70年代テレビ時代劇特有のワクワクが画面中に漲っていて、主演の杉良太郎も楽しそうだし、それより何より不知火お吉役の江崎英子! 女性のアクションスターというのは、無駄にセクシー路線か、アクティブな身体能力を誇示する路線か、どちらかに向かうものなんだけども、彼女はそのどちらでもない。どちらかといえば後者なんだけど、まるで少年のような“未成熟”がアクションの、身体の動きについてまわる。男と女に分化する前の、思春期の少年少女特有の“青い色香”というか、そういうものが最も理想的な形で実現されていて、当時もう20歳を過ぎていたはずの江崎英子という紛れもない女性の身体に宿っている。その奇妙な不一致(という名の一致)。


■今度出るPS2版ゲームの記事を書くために矢沢あいNANA』を読んで、もうボロボロと涙を流しながら11巻まで読み進み、気がついたことがふたつ。


■まず最初に思ったのが、これって『ファイナルファンタジーX』と同じ手法だよなってことで、『FFX』のモノローグの機能については以前『SFマガジン』の原稿にも書いたのだけども、つまり『NANA』の泣きどころってのは、誰が読んでもわかるように、各エピソードの前後に挿入されているモノローグにある。そしてこのモノローグが、すべての物語が終わったあとの主人公(奈々ないしはナナ)の視点で語られているというのがポイントなわけです。「彼岸からの視点」というか、物語全体をメタレベルから検証し直す視点。つまり読者には、この『NANA』の物語が決して幸福な結末を迎えないことがあらかじめ予告されていて、その予感だけを頼りに――その予感をサスペンス(宙吊り状態)の源泉にして、次々と物語が語られていく……という構成だ、と。言い換えれば、『NANA』のそうしたモノローグは、「まほろさんが停止するまであと○○日」と同じ機能を果たしているわけです。


■なので、モノローグとモノローグに挟まれたエピソードそれ自体は、特に何か驚くような内容が語られているわけではないし、前後の整合性から考えると「え?」みたいなことも多いし、それより何より、奈々とナナがどうしてあれだけ惹かれあったのか、とか、けっこう物語の根本に関わる重要な部分が省略されてたりする。行き当たりばったりで中身からっぽな、その内実は、あまりにも切ない「彼岸からのモノローグ」によって、かろうじて支えられている、という。


■で、気づいたことのふたつ目は、これって『下妻物語』と同じ話だよなあ、と。20歳前後の女の子ふたりのユニティ(結束、結託)という表層的なテーマの部分だけじゃなくて、片方が近代的知識人/芸術家で、もう片方が依存指向の強い共同体的存在だっつー部分も。宮台真司にならえば「超越」系と「内在」系のふたりが、どうやって友情(!)を育むことができるのかっていう。そういう話なわけです。もちろん『下妻』の桃子=大崎ナナ=「超越」系で、イチゴ=小松奈々=「内在」系ね。もちろん『下妻』がふたりの“友情”に焦点を合わせているのに対して、『NANA』はふたりの“別離”を描くことに力点を置いているとか、そういう違いはあるんだけども。


■そうやって考えると、ついこの間発表された映画化における、奈々とナナのキャスティングは明らかに逆で、超越系のように見えて、実は共同体的な美意識に訴える内在系のアーティストである中島美嘉は小松奈々を演じるべきで、塩田明彦の名作『害虫』を観ればわかるように、宮崎あおいは大崎ナナを演じるべきなのである。ああ、もうわかってねえよなあ。そういう意味でも映画版『下妻』のキャスティングは見事だよなあ……というのは余談ですが。


■個人的には、『NANA』が俄然面白くなったのは単行本の8巻――件のモノローグの語り手が、奈々からナナへとスイッチされて以降で、それはつまり僕自身が「内在」系のキャラクターになんの思い入れも抱けない人間だからなのだけれども、だって、上京して半年で男を3人もつくってセックスしまくって、子供ができたら“友情”を捨てるなんて、おい、いい加減にしろよ! と思わずにはいられない。そして、そんな元同居人に振りまわされる近代的芸術家たる大崎ナナには、深く共感するわけで、いったん築きあげられたはずの関係が、周囲の状況(というか相手の個人的な事情)によって破壊され、そのあげくに、決して元通りになるはずのないふたりの関係を取り戻そうと、恋人のように心わずらわせる大崎ナナ。その凛々しく混乱する姿に、なにか不思議な、まるで少年のようでさえある、奇妙に“青い
色気”を感じてしまうわけです。