よく考えてみるまでもなく

トップをねらえ2! (1) [DVD]


■さっきからずっとテレビにマーサ・スチュワートが出てるんだが、誰かに似てるな誰だっけな、あ、そうか、レニー・ゼルウィガーだ。


■『トップをねらえ2!』の、確か第1巻のパンフレットで、鶴巻監督が「“フラタニティ”というのは『フリクリ』にも出てきましたけど、『トップ2』に登場する方が、僕のイメージしている“フラタニティ”に近い」というような発言をしていて(不正確な引用ですが)、それってどういうことを指してるんだろう? と思っていたんだけども、『トップ2』の第2巻を観ていて、ああと氷解する。


フラタニティってのは、日本語で言うところの“博愛”とか“友愛”。フランス革命の有名なスローガン「自由、平等、博愛」の「博愛」なわけです。で、自由とか平等ってのは、一見わかりやすい(ようで本当はすげえわかりにくい)コンセプトなんだけど、博愛ってのは翻訳からしてどういうことなのか、よくわからない。……んで、確か福田和也か誰かが「博愛ってのはつまり塹壕の友情のこと」みたいな発言をしていて(うーん、今日はネタ元が不鮮明なものが多いな)、ああ、なるほどねと。つまり、同じ釜のメシを食った仲、つーか、同期の桜。生死が隣り合わせになっている状況をともにやりすごした者同士の心の繋がり、みたいなものを、“フラタニティ”という言葉は指しているわけです。


■そんで、鶴巻さんの言う“フラタニティ”も、そういうイメージを指してるのかもなあと思い――つまり、戦闘のためのシステムであるところの軍隊でもなく、かといって治安維持システムとしての警察でもなく、戦場という場所において繋っている者の連帯=フラタニティ、っていう。


■でもって、フランス革命の担い手たちの姿を見るとわかる、というか、かつて戦争は男の仕事だったのであって、博愛という言葉には、多分に同性愛的なイメージが含まれている。いや、より正確に言うと、性別を超えた一体感というか連帯感、みたいな。男同士の友情(今なら女同士の、というのもアリか)、なんていうと非常にうさんくさく聞こえるけども、戦場という非常時においてはそれらが可能なんだ、と。あるいは男女の間でも、いわゆる性愛を超えて連帯できる可能性。そんで、この“博愛”のコンセプトが、近代における国民国家の生成のプロセスに重要な役割を果たした……というのは、いろんなところで触れられてる話なんだけども。


■ここで前回の日誌に繋がる。『NANA』の大崎ナナや『大江戸捜査網』の不知火お吉の“青い色香”――まるで少年のように見える少女たちの姿、には、そうしたフラタニティの匂いが染み込んでる。これは別に「少年のような少女たち」だけでなく、「少女のような少年たち」にも共通してある感覚で……などというと、性が未分化な状態だからこその魅力。みたいな話に陥りそうなのだが、実はそうではない。完成したセクシュアリティ=大人、未だ熟していないセクシュアリティ=子供、とかいうふうに見てしまうんだけども、そうじゃなくて。セクシュアリティと切り離された身体――性差に左右されることなく魅力的な身体というか、つまり性別すら超えたっつーこと? な身体が(理念的には)存在するんだよな、って話。


■……などという、腐った稲垣足穂のようなことを書いているのには実は訳があって、最近菊崎さんからミシェル・ウエルベック素粒子』を借りて読んで、うわあ、これってそういう話なんだと思ったからで。つまり『素粒子』の大きなモチーフのひとつに“男女の性差が人類を不幸に貶めていた”というのがあって、小説中ではそれが奇怪かつ論理的な方法によって解決されてしまうわけなんですが、つまり中性的というか単性的というか、性がひとつになることで開かれるユートピアがあるんだ、と。もちろんそれは見方によっては、当然ディストピアのようにも見えるんだけども、とにもかくにもそうしたファンタジーを、人類は“フラタニティ”のなかに見い出す。うーん、へー、そんなもんなのかしらー、と友情よりセックスに興味津々な永遠の童貞高校生気分を満喫している僕は思ったりするわけですが。