サーバは要求を理解しませんでした

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)


■春コミケにもふたけっと2にも行けませんでした。忙しいのはいいことだが、それは同時に罪だ。


ウエルベック素粒子』のメインモチーフのひとつである「科学革命という“第二次形而上革命”」について、前書きで触れている中沢新一の「カイエ・ソバージュ」全5冊を読んで、ここでも相も変わらず(!)、二元論的な認識と一元論的な世界のあり方の齟齬。が問題になっているんだなあと思う。なんか別にねらってるわけでもないのに、こうもまあ似たような本ばかり読んでいると、正直疲れる。


■中沢の議論をざっくり整理しておこう。まず最初に、人類と類人猿の間には大きな差がある。それは「流動的知性」の有無と呼べるもので、この「流動的知性」によって人類は、違う領域に属するイメージを「圧縮」したり「置き換える」能力を持ち得た。つまり、隠喩や換喩を扱うことが可能になったわけだ。例えばある神話には、山羊の皮を被った人間が出てくる。それは「山羊」と「人間」という、本来なら別々のカテゴリーに属するイメージが、置き換え可能になったということである。神話に登場する「山羊=人間」たちは、「山羊」の皮を被ったり脱いだりすることで、「山羊」と「人間」の間を自由に行き来する。


■こうした換喩や隠喩の能力は人類に特有のもので、この能力が芸術や科学といった文化を生み出した。人間とその他多くの生き物との違いは、情報処理の方法が異なっていることにあるわけだ。例えば「鳥」は、私たちの「食べモノ」であり「空を飛ぶモノ」であり「卵を生むモノ」であり「卵を育てるモノ」であり「異世界と地上の間を自由に行き来するモノ」でもある。多様な、本来なら別々に処理されてしまうだろう情報を「鳥」のイメージは圧縮した形で保持している。


■こうした人類特有の知性のあり方を、中沢は「対称性」と呼ぶ。そこにおいて万物は、差異の体系としてある。アレとコレの違いはただ単に違いであり、上下関係は存在しない。例えば男性と女性は違うが、男性の方が社会的に上で女性が下……なのではない。すべての差異は並置される(これが一元論的な世界のあり方)。


■しかし、人類の発生から長らく続いていた「対称性」の思考法は、ある時点において「非対称性」の思考法に呑み込まれる。中沢はその時点を、王の発生(共同体を贈与によって結びつけている「首長」と、戦いのリーダーである「将軍」を同じ人物が担うようになって登場するのが「王」だ)、一神教的な宗教の発生、資本主義の発生、に見る。これらは同じ“超越性”の、別々な発現である。


■例えば「王」や一神教的な「神」は、絶対的な権力を持ち、世界のすべてに順列をつける存在として、私たちの世界に君臨する。超越的な場所に立っている彼は、世界を再編成する力を持っている。そしてもうひとつの側面――資本主義の発生もまた同様の事態として理解できる。それまでの「贈与」は、等価ではありえなかった。例えば、僕が彼女に渡す花束には、僕の想いがこもっている。その「想い」はほかの何かでは交換不可能である。しかし、花束の代金に僕が「貨幣」を受け取ると、僕の「想い」は抹消され、と同時に、ほかの万物――バナナやコンピュータやタバコと交換可能になる。そして僕と彼女は、「貨幣」の力に導かれて、そうした交換の体系へと放り込まれる。彼女に渡した花束が「500円」でバナナが「1000円」なら、バナナは花束の2倍価値がある、ことになる。


■果たして中沢の議論が正しいのかどうかは、かなり怪しいところだろう。しかし以前何度もここで触れた通り、僕たちは今「二元論的な思考法」の生み出す悲惨を、ひどく痛切に感じている。そして、その結果として「一元論的な世界の有り様」を探求し、対処法を知りたくて仕方がない(現代思想のモチーフは、すべからくそのバリエーションだ、という話も以前やりましたね)。だから「カイエ・ソバージュ」シリーズの議論は、一方ではひどく怪しく、しかし不思議な説得力を持っている。


■面白いのは、一神教をめぐる議論のなかで、仏教だけが特別な地位を与えられているところだ。仏教は、キリスト教イスラム教とは違って、“超越的な神”を求めない。超越的な標準から、この世界を切り分けるという思考法を持たない。むしろ、世界の裏側にびっしりと張りついている多様性、可能性をそのままに肯定しよう――超越的な認識によって、世界の有り様を一元的な世界へと再々編成しようとする(例えば、輪廻の思考というのはそういうものだ)。


■そういえば『素粒子』のラスト、衝撃的な第一歩を歩み始めた人類に対して、キリスト教団体は猛反対を表明し、しかし仏教徒たちは諦観に満ちた消極的賛成を表明する……という描写があった。どれくらい妥当性があるのかはわからないけども、でも面白いなあとは思う。