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人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス) ウルトラ・マドンナ グレイテスト・ヒッツ


■あまり長い間放置しておくのはまずいよなあと思いながら、特に書くことも思い浮かばず、『スタジオボイス』のレビュー書きでバタバタとし、そのあとはすぐに『ハイパープレイステーション2』の準備が始まって、ひと段落ついたと思ったら去年に引き続きE3取材でロス出張で、全部の山が過ぎたら溜まりに溜まったアニメやら本やら映画やらを処理しつつ……と、ずーっとユルユル忙しい状態が続いておりました。ゆっくりモノを考える時間がなかなか取れない。


スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』は、要するに“人間はまっさらな状態で生まれてくるわけではないし、教育で全部がどうにかなるというのは大きな間違いだ”という話で、それがまあ、延々といろんな角度から書かれている本なのである。つまり大まかにいって「空白の石版(blank slate)」批判が主眼の本なので、ある部分はすごく面白いけど、ある部分はとても退屈。退屈、というとけなしているように思われるかもしれないけど、そんなことは全然なくて、これはこれで致し方なくて、というのはこの日誌でも、以前から何度か触れてきたことだけれど、つまり“抜本的な回答”というのは、どうやらこの世の中には存在していないらしく、AかBか、ではなく、Aのどのあたりが適正で、Bのどのくらいが間違っていて、その配分をどうすればみんなが住みよくなるのかということこそが問題なのである……という話なのですよ、やっぱり。


■人間は、遺伝子によって組み立てられる生物だ。だから、かなり大きな部分を、遺伝子を経由して、親から受け継ぐ(その“部分”がどんな部分なのか――それを科学はどの程度解明しているか、については実際にこの本をあたってください)。つまり大まかな設計は、あらかじめ決められている。……が、だからといって、全部が全部決定論的に決められているわけではなくて、環境や教育によって変えられる部分もあるし、批判や吟味を許さないわけではない。というか、変えられないからといって全部を遺伝子の所業にするのではなく、そうだからこそむしろ批判や吟味が必要なのだ。という話。


■例えば、人間は長い歴史の間、ずーっと争いを続けてきた。それはもしかすると、人間の本性なのかもしれない。人間は争いを好む生き物なのかもしれない。が、だからといって、争いを傍観してていい。というわけにはいかない。個々の争いについては、そのたびに批判や吟味が必要なのだし、「人間は暴力的な生き物だから」というのは何の答えにもならない。つまり、そのたびごとの処方箋を探し続けるしかない、ということでもある。


■そんなわけで『人間の本性を考える』は、一種の超越性批判としても読めるわけなのだけども、そんな気分のままロスアンゼルスまで飛行機で11時間、“ここって、すべてが剥き出しになってる場所だなあ”とか思う。これは確か去年も書いたような気がするのだけども、西洋文明はユーラシア大陸の西側からスタートしてそのあと大西洋を渡り、アメリカを発見し、20世紀初頭に西海岸に到った。そしてそこから先はなくて、というかただ広い広い海が開けていて、そのあと世界はすべてつながって、情報が集積する都市と情報過疎地である田舎とが穴あきチーズのような状態で入り混じった、平坦な場所へと生まれ変わったのである。


■だから、ロスの街を包んでいる殺伐として享楽的な気分というのは、実に西洋的なのだ。西洋的なすべてが圧縮され、林立するビルボードとなって、僕たちの目の前に展開するさまはいっそ心地よい。しかも、すごく空気が乾いていて、気持ちいい。『要塞都市LA』のなかに、ほとんど住む人がいなかったこの場所が当初「アメリカの地中海」として喧伝されていたという事実が書かれていたのだけれども、たぶんそういう“リゾート”として、ロスは僕の前にある。


■この、ホントのこと=超越性から切り離されて、ただイメージのなかをふわふわと漂っている街――しかもその街が、ちゃんとそこに存在していて、こうして僕の足で踏みしめることができるという事実は、なんともロマンティックな情感を呼び起こす。そういえばマドンナにかつて「マテリアル・ガール」という曲があって、そのなかで彼女はこんなふうに歌う。「恋に愛する男の子たちもいれば/スロー・ダンスに興じる男の子たちもいる/それでいいじゃないの/私の興味をそそらなかったら/好きなようにさせておくだけよ」。


■私の興味をそそらなかったら、好きなようにさせておくだけ! なんという清々しい宣言だろう。“誰か偉い人”からの判断を待っているほど暇でもないし、どっちかというと退屈を持て余している“マテリアル・ガール”たちは、自分たちの興味の赴くがままに、きらびやかでくたびれて、退廃的で華麗なイメージのなかを闊歩していく。それこそ、西洋の果てに現れる光景なのだろうし、物質社会=マテリアル・ワールドでの倫理というものだろう。