君の瞳に恋してる

暴走するインターネット―ネット社会に何が起きているか 月瀬幻影―近代日本風景批評史 (中公叢書)


■なにが原因なのか、よく眠れない日々が続いているのですが。


鈴木謙介カーニヴァル化する社会』がとても面白かったので、彼の前著である『暴走するインターネット』をいまさら改めて読んでみた。で、いろいろ思うところがあったのだが、彼の師である宮台真司のテキストを参照する形で“出会い系サイト”の発展史を振り返っている箇所があって、ふーん、そっかー、面白いなあとか思う。その論旨を大雑把にまとめてしまうと、つまり“(性愛も含む)恋愛”は当初、社会的なイシューだったのだ、と。かつて、婚姻というのはなによりもまず、共同体を結びなおす契機であって、そこに関わる男女の個人的な能力は――とりあえずはあまり問われなかった。


■しかし、終戦を経て、60年代頃にこうした考え方が変わる。まずは“若者”という概念が立ち上がって――つまり社会は“若者”とそれ以外の“大人たち”に区分けされて、“若者”たち同士の連帯が、恋愛の土壌となる。しかし“若者たち”にももちろん、いろんな“若者”がいるわけで、さらに時代が下るにつれて、恋愛は個人的な問題になる。恋愛は“恋をする個人的な能力”の問題へと発展して、外見だったり性格だったり、個人の属性によって成就するかしないか、失敗するかしないかが決まるような事柄になる。家の格式や社会的な地位に左右されるのではなく、個人の能力こそが“決め手”になる(と一概に言い切れないのが、また難しいところなのだけれども、でもまあ多くの人はそのように“恋愛してる”と思っているはずだ)。


■で、鈴木はそこから“出会い系サイト”というテクノロジーが問題なのではなくて、人々の意識がそのように変遷したことが、“出会い系サイト”のようなテクノロジーを可能にしているのだ、と結論づける。彼はこの本のなかで何回も強調しているのだけれども、テクノロジーが人を、暮らしを変えるのではなく、人の欲望こそがテクノロジーの源泉にある……という。その論旨は非常に説得的で、面白い。まあ、人の欲望がテクノロジーを誘導し、と同時にテクノロジーが人の行動を制限するんじゃないか、と僕は思うのだけれども。


■というかこの下りを読んでいて、僕がすぐに思い出したのが、先月の頭からチマチマと読み進めている大室幹夫『月瀬幻影』のことで、江戸時代後期に起こったある“風景”の発見と受容、その在り様を詳細に検討していくこの本は、博覧強記な大室先生だけあって、なかなかサクサク読むというわけにはいかなくて、しかも射程が恐ろしく広いので、ひと言で要約なんかできっこないのだが、ひとつ重要なポイントとして、日本の“風景”を見出した近代的知識人たちがいわゆる封建的な社会を打ち破る契機をはらんでいた、ということが挙げられる。


■学校で習う通り、江戸時代、日本には「士農工商」という身分制があり、武士と庶民の間には厳然たる格差があって、それは容易に乗り越えられる壁ではなかった。しかし、江戸幕府開幕から200年近くが経過した18世紀の末になって、新たな知識人層が現れる。彼ら、学者文人たちの多くは庶民――といっても地方の豪農や有力商人の息子たちで、しかも先祖をたどれば、もともとは武士階級の出身だったりするあたりが事情を複雑にしているのだが――だった。彼らは、その当時の主流学問であった儒学を身につけ、また昌平校開校に代表されるような、知識を重視する社会的な流れに乗って、世の中へと漕ぎ出していく。そこでは、かつてのような厳然たる封建社会の壁は明らかに崩れつつあって、知識と言葉があれば、そのような壁を乗り越えられる契機が確かに潜んでいた。そう、個人的な能力こそが問題になるような地平が、江戸時代の末期には開かれつつあり――大室が何度か繰り返すように、明治とともに“近代”が始まったわけではないのだ。


■そうやって考えると、たぶん僕たちはいまだ“近代”のただなかにいる。“個”の価値観や能力こそが問題であるような、そういう社会のなかにまだ、僕たちはどっぷり首まで浸かっていて、そこから出るのはとても容易なことではない。だけれども、そんな“個”にすべてが集約する社会にも、それが成立するにいたる歴史があり、根源があるということ。始まりがあること、は忘れちゃいけないんだよなあ、と改めて思ったりするわけです。