開けたら閉める


■E3にあわせて、PCをあわてて買い換えたおかげで、以前事務所メンバーからプレゼントしてもらったiPodが気軽に使えるようになって、ついでに「ハイパー」連載でお世話になっている松浦さんが深く関わっているレコミュニに入会して、曲をダウンロードしてみたり、ついに4年近く使っていたSO211iがぶっ壊れたので携帯電話を買いなおしたり、これまた松浦連載でイー・マーキュリーの笠原さんにお会いすることになって、せっかくだからということでミクシイに入会してみたり。あれこれと生活環境を変えてみた、この2ヶ月。


■今さら何言ってんだよ、という方も多いでしょうが、何が変わったって、生活のリズムが明らかに早くなった。いや、早くなったというよりは、断片化してるといった方がいいかもしれない。ブツギレにピョンピョン飛ぶような感じで、これはDVDレコーダーを導入したときにも感じたことなんだけど、メディアなり何なりに時間を拘束されることがすごく少なくなった。つまり“待つ”だったり“時間をかける”だったりってことが、僕の生活のなかからすごい勢いで消えていく。iPodにせよ携帯電話にせよミクシイにせよ、ものすごくアクセスがしやすくて親しみやすい。と同時に、すごい勢いで、すごい量の情報が僕のなかを通り抜けていく。


■そんなことを思ったのは、蓮實重彦の講演集『私が大学について知っている二、三の事柄』を読んだからだろうと思う。というのもこのなかに、その名もズバリ「Sustainability」と名づけられた講演が収められている。で、その短い講演は、いかにも蓮實重彦らしく「sustainability」の概念が、日本語では「環境」という言葉に置き換えられてしまう事実を指摘するところから始まる。


■「sustainable」は、辞書を引くと「(環境を破壊しないで資源開発が)継続できる」という意味の形容詞。「sustainability」はその名詞形だ。つまり単に環境開発の是非を問うのではなくて、どれくらい環境維持が可能なのかに焦点を置いた学問の一分野ということだろうか。しかし僕は、この講演を読んでいる最中「持続性」が、なぜ環境(Environment)の分野で問題になるのか、ちっとも理解できなかった。というかこの講演中、何度も呪文のように繰り返される「sustainability=持続可能性」という単語ばかりに気がいって、中身が全然読み取れなかったのだった。


■「持続可能性」という単語には、考えてみればすぐわかるように、時間の概念が含まれている。過去から未来へと伸びていく時間線というもの。昨日から今日へ、今日から明日へと受け渡されていくバトン。そのバトンを、途切れないように、それこそ自分の子供やそのまた子供たちに渡していく、というようなイメージ。このイメージは僕のなかで、携帯電話やiPodの持つスピード、手軽さ=「接続可能性」と真っ向から対立する。持久力と瞬発力、というか。構築と流通、というか。積みあがるものと流れていくもの、というか。


■どちらがいいとも、どちらが悪いとも思わない。だけど「sustainability」という言葉というか概念が、わざわざつくられなければならない(or 発見されなければならない)ほど、僕たちを取り巻くスピードは早くなっている。どんどん情報は流通し、あっという間に消費され、記憶にとどまることなく消えていく。ヴァルター・ベンヤミンが「パッサージュ論」を書くときに、徹底した断片化を自らのテクストに課したのは、世界最大の都市のひとつだったパリの姿を全方位的に書こうとしたからなんだろうな、なんてことを思う。たぶん、その頃、世界でもっとも情報の流通速度が早かったパリに身を置いて、パリそのものを描こうとするときに最適の方法はこれだ、と彼は考えたのかも、と。


■そして、この圧倒的な速度のなかで、どのようにして「持続性」をつくっていくのかが、なにかたぶん大きな問題のような気がしているのです。