この電車は君たちをどこまで乗せていくのかな?

■……というのは、この間、最終電車に乗ってたら、前の席で仲のよさそうなカップルが肩を寄せ合って眠っているのを見て思ったこと。荒れてるなあ、俺。


■前々から噂に聞いていたユリイカ増刊『オタクvsサブカル』が、書店に並んでいるのを発見。ふーん……と目次を眺めて、ちらちらと立ち読みをする。ちゃんと読んでないので、あまり大きな顔はできないんですが、なんとなく書かれていることが予想できるような気がする自分が嫌。というわけで、以下雑感。予備知識のない人には、まったく何のことやらわからんことが書かれているし、僕の個人的なまとめでもある。しかも不毛。なので、めんどくさいことになりそうだったら、エントリごと削除するつもりです。


■「オタクvsサブカル」って枠組みを知ったのは、たぶん宮台真司のテキストだったと思う。何で読んだのか判然としないし調べるのも面倒なんだけど、たぶん『サブカルチャー解体新書』での議論を受けたものだったと思う。で、そこでは70年代のどこかから80年代初頭にかけての文化風景について触れられていて、要するに当時は、オタクとサブカルは分化してなかったんだ、と。大人の文化に入らないすべてのもの(それこそ字義通りの「サブカルチャー」)が渾然一体となっていて、マンガもアニメも音楽も映画も、みんな共有するような空気があった、と。ところが、そこから「新人類」「ニューアカ」と呼ばれるような一群が突出してきて、そこから分化する形で「オタク」が出現する。


■果たしてこんなふうに要約していいかどうか、僕にはさっぱりわからない。が、なんかある程度の信憑性はあって、今40歳前後の人に話を聞くと、確かにそういう状況があったらしいことはわかる。で一方には、大塚英志が言うように、戦後のまんがが抱えた表現上の苦闘が「おたく」の発生を後押しした側面もあって、話はどんどんこんがらがってくる。ただ僕が宮台の論旨のなかで、「なるほど」と思ったのは、彼が「オタク」と「新人類(と、たぶんそういう文化態度を引き継いだ四文字言葉としての「サブカル」)」を、先鋭的な表現が好きなグループのなかの権力闘争としてではなく、個人の資質の問題として摘出した点だ。


■要するに、世の中のメインストリームのようなもの。からはみ出してしまう、表現というのは厳然として存在してしまっていて、その表現を愛好する人たちがいる。しかし、その人たちのなかでも、ある種のジャンルを自己規定して深く掘っていく人もいれば、そうしたジャンルを越えて、次々と斬新な表現を追い求めていく人もいる。前者が「オタク」で、後者が「サブカル」だ。そして当たり前だが、どっちの態度にも問題がある。「オタクはジャンル(というか範囲、だな)を自己規定して掘り下げる」と書いたけど、それは往々にして「自分の好きなものが絶対に正しい」という態度に結びついてしまう。最近までよく云々されていた蛸壺化ってヤツだ。そんなものはどう考えても不健全だしね。


■で「サブカル」はどうかというと、つまりジャンル横断的な態度ってことだ。こうした態度は往々にして、流行モノに乗っかって、がんがん文化風景を刷新していくって態度に結びつく。でも、ジャンル内ジャンル内ジャンル……みたいな細分化を繰り返すって意味ではどっちもどっち(テクノをめぐる90年代初頭の、悪夢のような風景を思い出す)。しかも「サブカル」は、終わりのないセンス闘争が大好きだし、加えて、過去の文化的な蓄積をあっという間に気分で消費して忘却していく――いわば「ミーハー」体質を含むので、これはこれで性質が悪い。ある意味「前衛(文化エリートとそれについていく大衆)」の発想が復活してるというわけで、そんなもの気味が悪くってしょうがない。気分に左右されるのがどれだけマズいかは、歴史が証明してる……よね?


■だけど、何度も繰り返すようだが、これは文化の受け手の(そして担い手の)資質に関わる問題なのだ。80年代を通して起こったのは、マンガやアニメやゲームといった、いわば大人の文化に入りきらない「辺境の文化」が急速に拡大するという事態だった。作品の数もすごく増えたし、付随する情報量もどんどん増えた。そういう情報の渦を、どうやって切り抜けるかというときに取りうる、ふたつの態度が「オタク」と「サブカル」だった、というだけの話なのだ。「全部は無理なんだ」とあきらめてひとつのジャンルにこだわる「オタク」と、情報を薄く広く摂取して、なるべく取り漏らしがないようにと動く「サブカル」。そしてどっちを選ぶかは、その人の個人的な“資質”に拠ってしまう。資質というか性格に。


■人の性格を云々することほど、不毛なことはない。「お前は偏狭だ」と指摘して直るもんでもないし、「気分次第でフラフラしやがって」と難詰したところで、何の効果もない。だって性格だよ? 直るわけないじゃん。浪費家はどこまでいっても浪費家だし、偏屈はいつまでたっても偏屈だ。更科修一郎が『ユリイカ』の特集のなかで「内ゲバしか知らない子供たち」というサブタイトルでテキストを寄せているけれど、こんなもの内ゲバ以下だ。だって、思想的な対立でさえないんだから(まあ、内ゲバが本当に思想的な対立だったかはわからないところも多いが)。いずれにしろ、ただ「自分と違う!」というだけの話。


■そしてこういう風景は、たぶん何度でも何度でも何度でも繰り返される。それはもう僕たちの所与の条件なんだろう。