わからないのはいいことかもしれない

■たとえば。僕が激しくイライラしてしまうのは、“ここ数年、「映画」というものが気になっているんだ。「映画って何なんだろう」みたいな事を考えたりしているわけ”なんていう発言を読んだときで、しかもそのあとに“映画が分かってないと、アニメも分からないと思ったからなんだよ”なんて話が続くと、お前は映画もアニメも、わかんなくていいよ! そんなことわかんなくったって、人生にはなにも困らないんだし! とか思う。


■たぶん僕が何にいらだっているのかといえば、「映画」と「アニメ」を別のモノに区分けしようとする思考(あるいは嗜好)そのものであって、あるいは「映画が偉くてアニメは下だ」とか、「いやいやアニメの方が上だ」というような、未熟で頭の悪い議論が巻き起こってしまうこと、それ自体が頭にくる。映画は、わかったりわからなかったりするモノではなくて、ただ僕たちの目の前そこにある、芸術ジャンルのひとつでしかない。


■なぜ「映画」という言葉が特権的に響くのかといえば、それはもう、人類が初めて体験した映像メディアが「スクリーンに向かって、1秒何コマかで投影される連続写真」だったから、ってことにほかならない。それを人は「映画」と呼んだけれども、そのあと映画は技術とともに、さまざまに変化し、違いを生んできた。確かに、テレビの受像機に映し出される映像と、スクリーンに投影される映像は“どこかが違う”。でも、それも含めて、すべては映画なのだ。


■……といいながら、毎週放送されるテレビアニメを山のように浴びて、たまには映画館に出かけて大スクリーンで『父親たちの星条旗』を観て、テレビゲームやらハードディスクレコーダーに録り溜めたドラマを消化しつつ、さらにはYouTubeで素人の録ったビデオを見たりする。そうしているうちに、確かに映画にも2種類あることに気がつかされる……というのも、また事実なのだ。


■映画が原理的に抱えている限界はいくつかあるけれども、そのひとつが、スクリーンの端。縦何センチ×横何センチか、の四角形。映画は、この四角形から(基本的に)逃れることができない。フィルムに描き込まれたアレやソレは、この四角形の上で再現され、再現され、何度でも再現される。しかし、スクリーンの(あるいはテレビの、あるいはパソコンモニター上のウィンドウの)外枠の外に出ることは、絶対にない。そこは、映画にとって存在しない場所、なのだ。


■が、恐ろしいことに、星の数ほどある映画のなかには、この“外枠の外”がまるで実在するように感じられる作品がいくつもある。これはかつて、黒沢清がインタビューで答えていた例だが、スクリーンに映し出された“扉”。私たちは、その閉じられた扉の向こうにも、世界が延長していることを、本能的に“知っている”(本当は、ただの書き割りかもしれないのに!)。そう、私たちは“スクリーンに映し出された扉”の向こうに――言葉を換えれば“外枠の外”に、まるで世界が続いているかのように、勘違いをしてしまうのだ。


■もし、セルアニメーションと呼ばれる芸術形式が特殊なのだとすれば、それは“外枠の外”が、本質的に存在しえないこと、にある。1秒に何コマかの“描かれた絵”の連続でしかないセルアニメにおいて、“描かれなかった絵”は存在しないに等しい。上の“スクリーン上の扉”の例でいえば、アニメのなかの“扉”の向こう側、は存在しない。なぜなら、その“外枠の外”は、これまでも描かれたことはなく、これからも描かれることはなく、世界のどこにもありえない場所なのだから。それは単に“不在”なのだ。


セルアニメーションのユニークさは、こうした“外の不在”に起因している。アニメーションに“外”はない。アニメーションは、スクリーンに切り取られた四角形の“内”に充足しなければならない――むしろ、その“内側”を、どのような情報で埋めていくか、が問われるようになる。これはもちろん、セルアニメーションが原理的に抱えてしまう限界だけれど、それは別に不幸なことじゃあない。


■そうして2種類の映画が、この世には登場する。ひとつは、スクリーンの“内側”に向かって、ひたすら没入していく映画。もうひとつは、それとは逆に“外枠の外”に向かって伸びていこうとする映画。アニメと「映画」に差異は存在しない。ただ、スクリーンの内と外にどう挑むのか。そうした複雑な力が交錯する場として、私たちの前に“映画”は立ち現れるのだ……。


■というのは、もちろんタチの悪い冗談ですが。