『時かけ』の危険性について

時をかける少女 通常版 [DVD]


■うわー、気がつくともう半年以上も放置してしたのか……。どうにもこの筆不精を直したい。てゆうか実は、去年公開されたとある映画について書こう書こうと思いながら「いや、もう一度劇場で確認してから書こう」とか「絵コンテ集をチェックしてから書こう」とか「せっかくだからDVDの発売タイミングに合わせて」とか考えているうちに、テレビ放映も終わってしまいました。「何が」って、そりゃあもちろん、細田守監督『時をかける少女』のことです。


アニメ雑誌で原稿を書いたりしていると、当然のごとく、いろんな評価が飛び込んでくるわけです。それは『時かけ』に限らず、今テレビで放映してる作品とか、これから映画館でかかる作品の前評判とか。で『時かけ』に関しては、事務所の菊崎くんがメイキングを撮影してたり、当時顔を会わせる機会の多かったライターの古川耕さんが激賞していて――というか、細田守があの『ONE PIECE』の次に撮った映画なら、当然観ねばならんだろう、と。だけど、連日テアトル新宿はすごい混みようで、なんとなく機会を逃しているうちに、ようやく観たのが東京での上映がほぼ終わりに近づいた頃のこと。「泣ける」とか「青春時代を思い出す」とか「甘酸っぱい」とか、そういう評判だけはやたらと耳に入ってくるんだけど、さてどんなもんかな? と、郊外のシネコンまで出かけましたよ。なんか妙に寒くて、行き帰りの電車がガラガラだったことを思い出す。


■んで、まあ、上映が始まってしばらくのうちは「ふんふん、そうか」と思ってたわけです。あー、さすが細田さんだなあ、同ポの使い方とか、上手くまとめてるよなあ、なんて。ただ『ONE PIECE』のクライマックス――ほとんど無根拠に敵ボスに立ち向かっていく麦わら帽子の異様な形相を目の当たりにしていたこちらとしては、正直物足りない。確かに「甘酸っぱい」「青春もの」で「泣ける」のはわかるし、真琴のキャラクター造形もいいなーとは思う。でもなー……って感じだったんです、最初のうちは。


■「あれ?」と思ったのは、後半も後半。真琴が、千昭の待っている川べりに向かって走る、長回しのカット。ちょうどバストアップでカメラは真琴を押さえていて、ずーーーっとフォローしていく。カメラの移動速度は一定なんだけど、真琴が疲れてちょっとスピードが落ちて、それでも「なにくそ!」って力いっぱい走り出して、画面の左側に抜けていく。このカットを見たときに「なんか異様なことが起きてるぞ」と思ったわけです。


■これは以前、ここに書いたことですが、アニメーションというのは――特に、日本の主流であるセル(手描き)アニメーションにおいては、画面の内に向かって情報量を高めていく傾向が強い。絵というのは、どうしても実写に較べて情報量が少ない。むしろそこでは「いかにデフォルメするか」が重要だったりして、つまり情報「量」ではなく、情報「質」によって、観客の受け取る情報量を調整することが、アニメーションのスタイルになるわけですが、上述のシーンは不思議と「外に開いていく」ような感覚があった。例えば、真琴はカットの初めから走っていて、カットの終わりでもまだ走り続けている。たぶん、カットのあとも「真琴はかけ続けている」。


■もうひとつ、上述のシーンで注意すべきなのはは、彼女が「どこを走っているか」が明示されていない。例えば、このカットの前に彼女の全身が写っているカットを挿入して「走っている状況」を説明することは可能なはずなのに、「彼女は突然、走っている」。たぶん真琴は、近所の商店街らしきところを走っているようなのだけれども、それがわかるカットは存在しない。しかも丁寧なことに、走りの途中で、背景が青空になるところがあって、ここはまるで彼女が「空中をかけて」いる――無時間という時間、どこでもない場所を走り抜けているようにさえ見える。


■そして、もうひとつ重要な場面が、この後に来る。夕暮れの荒川土手で話す、真琴と千昭のシーン。すでに逃れることができなくなった別れを、ふたりが確認しあう場面ですね。


■僕が仰天したのは、画面左に向かって歩き去っていく千昭に向かって、真琴が大声で叫ぶシーンです。彼女は、画面の外に向かって「別れ」を告げる。これも前々回に書いたことだけど、アニメーションにおいて、原則的に画面の外は「存在しない(描かれていない)」のです。つまり、彼女は「不在の千昭」に向かって声をかける。別れを告げる。


■これだけなら、アニメでもよくあるシーンだとは思う。が、驚きは次の瞬間にやってくる。なんと、カメラは次のカットで「千昭が歩き去った方向」を映す。そして、そこに千昭はいないのです。やはり真琴は「不在」に向かって、声をかけていたのだ……!


■と、すでに作品を観たことのある人ならご存知でしょうが、このあと同ポで真横からのショットに切り替わり、泣きながら反対方向(画面右)へと歩いていく真琴を、千昭が追いかけてくる。そう、「不在になった千昭」が――あるいは「千昭という不在」が、本当に最後の言葉を告げるために、もう一度だけ戻ってくる。


■この一連のシーンを見て、僕は呆然としてしまった。ここでは、ほとんど何ひとつ「説明されていない」。なにやら異常な事態が起きているらしいのだけれど、いったい何が起こっているのか、誰も「説明」してくれないし、むしろ「説明をしない」ことで、むき出しの事件が私たちの前に放り出されている。『時をかける少女』の前半が、恐ろしいほど徹底的に「説明」していたのと、あからさまに好対照で、つまりここで細田は「説明」という武器を放棄して、ほとんどエモーションとしか呼べない“何か”に身を委ねているようにさえ思える。そしてそれは、はっきりと「フレームの外」に向かって、開かれているのだ。


■これが僕の先入観だけの問題ではないのは、絵コンテ集を見れば明らかだろうと思う。というのも、時間の止まった渋谷の交差点のシーン(ここからDパートが始まる)から以降、こうした「説明」を省いたシーンが頻出する。まるでこれまでずっと我慢していたものが、一気に噴出するように。画面の内側のコントロールすることで、観客に「正しい映像」を伝えるのではなく、画面の外側にいる「私たちを映像に直接巻き込んでしまう」こと。そんな異様なカットが、どうやら意図的に配置されている。


■だから僕は、この映画を観終わって、唖然とするほかなかった。アニメーションでもこんな表現が可能だったなんて! ……だから『時をかける少女』は、少なくとも「感動作」や「泣ける青春映画」なんかではない。「ウェルメイド」という言葉が似合うような、安全さはまったくない。むしろ、かなり「危険な何かをはらんだ異様な作品」なのだ。少なくとも僕にとっては。